※無断転載・及び無断商用利用は禁止です。 ■姉と弟と剣と剣■ 【あらすじ】 剣士の姉弟、アルメルとユリス。 姉のアルメルは気ままで豪胆な性格、 弟のユリスは他人が少し驚くくらい姉に執着気味。 彼らは成人した後、互いを大切に思いながら、 商人や旅人の警護、書簡の運搬などを請け負って生計を立てていた。 姉弟が出くわすのは、変わり者や屈折した依頼人。 そして一筋縄ではいかない仕事。 魔物も超人的な必殺技もない中世欧州風の異世界で、剣で生きる姉弟と人間の物語。 ※1章1話の短編連作型です。 ※中二武器も必殺技も魔法もなく、ひたすら剣で斬突します。 --------------------------------------------------------------- ■1 姉と弟と求婚者 (1)  暖かな春の日の、昼食にしては遅く、夕食にしては早い時間だった。  剣士のアルメル・ラウラスと、ユリス・ラウラスの姉弟は、ロロの町の外れにある自宅に帰還すると食卓についた。  商人から旅の道中の警護依頼があったので、話し合いに出かけた帰り道に、魚の衣揚げを買ったからつまもうというわけだ。  仕事の報酬を受け取ったら少し上等の酒でも買おうかと、同じく帰宅途中で弟に買わせた安酒を二人で口に運んで話していたとき。 「最近叔母さんがうるさいのよね、あんたたちいつまでそうやってるのかって」  姉のアルメルはぽつりとこぼした。  肩ほどの長さの黒い髪に緑の瞳。年は二十代前半だが、小柄ゆえ幼く見られることが多い。  以前アルメル一人で酒屋に行ったとき、とうに成人しているにもかかわらず、店主に「子供に売る酒はねえよ」と牛乳を出された。それを未だに引きずっているので、酒は弟に買わせる。荷物持ちを押し付けたい、というのもあるが。  弟は魚の衣揚げの一かけらをつまんで言う。 「いつまでって、一生だろ。剣を振って生きるのがうちに生まれた者の宿命だよ。叔母さんだって剣術で生徒をとってるじゃないか。僕らもあの人に教わってるし」 「そうじゃなくて、姉弟揃って恋人作る様子もないわ結婚もしないわで二人暮らししてるのが気になるんでしょ」   叔母が心配するのは、アルメルもまあ、分かる。 「姉のひいき目を抜きにしても、あんたの顔かたちは別に悪くないと思うのよ。外で女の子に声かけたりしないの?」 「家の中に一番の相手がいるのに外で探す理由がないよ。僕は姉さんがいい」  弟のユリスは真顔で答えた。  短い黒い髪に緑の瞳。年は二十。背は姉より頭一つ半以上高いが、今は着席しているのでアルメルも彼と話すのに見上げる必要はない……代わりに、正面から見据えられてなんとも気恥ずかしい。 「だーかーらー……」 「いいじゃないか、姉さんも僕と一緒に家にいれば。白馬の王子様に告白されるわけないんだし」  弟は酒の入ったカップを傾けながら機嫌よさそうに喋る。  両親は姉弟仲よくしなさいと言っていたが、そういう「仲よく」を望んでいたわけではないだろう。  姉への執着は昔からとはいえ、アルメルは少なからず、悩んでいた。  そんな時、家の外から呼ぶ声がした。男性の声だった。 「誰だろ。依頼かな」  席を立って、アルメルは玄関に行き、戸を開けた。 「おっと、こんにちは。ラウラスさんのお宅はこちらでよろしいですか」  客人は一人だった。年齢はアルメルより十歳くらい上だろう。背はユリスより少し高く、伸びた濃い金髪を頭の後ろで束ねていた。羽織った外套は長旅のせいかくたびれている。  アルメルの目に留まったのは、腰に下げた剣と、外套から覗く筋肉質な腕。  雰囲気にも隙がなく、かなり腕の立つ剣士だろうと、アルメルは踏んだ。  自分たちは旅人の護衛の仕事もしているが、彼は護衛を請け負いこそすれ、護衛を必要とする側には見えない。  ではなぜうちを訪ねてきたのか。剣の勝負だろうか。  ラウラス姉弟の名はここらではそこそこ知れていて、名を上げる目的で勝負を挑んでくる者は時々いた。後から来て同じことを考えたらしいユリスが、陰からこちらを見ている。戦うのなら僕に譲れと、弟の顔に書いてあった。  けれども実際にどんな用事かは本人に聞かないと分からない。荒っぽい想像は押し隠して、できるだけ愛想よく、アルメルは客に尋ねた。 「そうよ。いらっしゃい、お客さん。御用の向きは」 「ではあなたがアルメル・ラウラスさんですね。初めまして。レナルド・グラムダールと申します。噂を聞いて想像していたより、なんというか……可愛らしいのですね」  レナルドという名の客人は、照れたように笑って一礼すると、言った。 「率直に用件を申し上げます。私と結婚してください」  即行で追い帰そうとしたユリスを、客への礼儀として話は聞こうと宥めて、アルメルはレナルドを家の中では一番片付いた区画に通し、椅子を勧めた。  奇妙なことを言うとは思ったが、しかし狂言にも見えないので、すぐお帰りいただくのは気が引けたのだ。ぞんざいに帰して商売に不都合な噂が立っても困る。 「ようこそお越しで」  「身なりが整っていないのはご容赦ください。旅の最中に立ち寄ったもので。私は、北方に領地を有するグラムダール当主の息子です」 「そんな格好で貴族?」  客を通してから露骨に不機嫌な顔のユリスが、刺のある口ぶりで訝しむ。  本人には悪いが、外套を脱いだ下の装束も安っぽい布地で、確かに高貴な出自とは結びつかない。 「だからご容赦くださいと申し上げています。グラムダール家の紋章入りの短剣です。これでも信用に値しませんか」  レナルドは短剣を取り出して見せた。柄の部分に尾のない竜の紋章の入った、丁寧な拵えの短剣。  前に都で貴族街の前を通りかかった時に見かけた紋章と同じだと、ぼんやりと思い出す。  こんな貧乏剣士相手に貴族を詐称して益があるとも思えない。彼の言うことは事実だろう。  ……つまり扱い方に注意する相手という事でもある。  レナルドは姉弟の表情を見て、一応は納得してもらえたと思ったらしい。短剣を仕舞うと、話を続けた。 「私は武芸を好んでいて、修行と見聞を広める旅をしておりましたが、父親ももう年で。先日帰宅したら、お前は結婚して跡を継げと言ってきたのです。そんな折にあなたの話を思い出し、こうして参じた次第です。腕のいい女剣士で、未婚で、まだ若いと」  加えて、直接会ってみてアルメルの容貌が気に入ったという風だ。 「姉さんを愛人になんてさせられないんだけど」 「妻です」 「だったらうちみたいな平民じゃなくて、相応の身分の女の人と結婚すればいいじゃないか」  ユリスの指摘はもっともだが、レナルドはかぶりを振った。 「好みに合いませんよ。屋敷の奥に引っ込んで体に悪い化粧を塗りたくり、毎日毎日他人の噂話ばかりしているような不健康な女など、こちらから願い下げです。そういう女はえてして外戚がうるさいのも厄介だ」  貴族にしては女の趣味の偏屈な御仁だ。  弟は、そういうのは分からなくもないけれど、と付け足して、面白くなさそうな顔のまま言う。 「それで、姉さんを連れてってどう扱うのさ。あんたが嫌いな女どもと同じようにさせるのか?」 「華やかな衣服や装身具をアルメルさんがお望みとあらば用意しますが」  話を振られると、 「仕事や剣の稽古の邪魔になるようなものは好かないわ」  アルメルはさらりと答えた。  貴族連中のまとう動きづらい服なぞ着たいものでもない。宝石や貴金属を仕事の報酬としてもらうこともあるが、ほぼ換金用だ。 「まあ、そのようで」  アルメルの服装はチュニックにズボンの、男のような格好だったが、変わり者の客人はそれをむしろ好ましいものと見ているようだった。  その後は屋敷の生活の内容や、嫁いだ後も剣術を止めさせることはしない、弟にも今よりずっといい仕事に就けてやれる等々の話を客人は喋り続けた。  こちらをからかっているわけでもなさそうなので、アルメルは相手を不快にさせないように聞いていて、やんわりと言った。 「せっかくだけど、急なお話だから、なんとも答えようがないわ」 「私も会ってすぐに了承を得られるとは思っていません。また後日参ります。色好い返事が聞けるといいのですが」  そうしてレナルドが椅子から立ったとき、 「もう来なくていいよ」  ユリスが遠慮なく拒絶を投げつけた。 「ちょっと、ユリス」  アルメルとしてはもうしばらく大人しくしていて欲しかったのだが。 「私はアルメルさんに聞いているのですが」 「僕は認めない」  少し酒が入っているせいもあるのか、ユリスは不満を隠そうともしない。  こうも歓迎していない態度でいられれば、誰であっても苛立つものだ。 「私の何がそこまで気に入らないのですか」 「全部だ」  ユリスの突っぱねる言葉を聞いて、レナルドはしばし黙ったまま相手を睨みつけ――  ……家中に響く声量で大笑いした。 「ラウラスの弟は姉に執着しているとは聞いていましたが、噂通り……いや噂以上か。これを説得できなければどうしようもないわけだ」  大きな声で喋りながらユリスを指差す。 「相手に端から聞き入れる気がないなら、言葉なぞ無意味だ。お互い剣士なら単純に行こう。 ユリス・ラウラス、君に試合を申し込みたい。私が勝ったら、君の姉をもらう」 「……あの、レナルドさん」  私を賞品にするのはどうかと思う――とアルメルは言いたかったが、 「僕が勝ったら、二度と姉さんに近づかないんだよね」  弟のほうまで乗り気と来た。 「それで結構。明日の昼過ぎで構わないな? アルメルさん、あなたには、あなたの夫になる男の勇姿をご覧に入れましょう。明日の勝負の立ち合いを願います」 「二人とも、私は試合の賞品になるのは」  御免なんだけど――  と、アルメルが困り顔で声に出す前に、レナルドは外套と荷物を取ると早々に外に出て行ってしまった。  家が一気に静かになり、アルメルの唇からため息が漏れた。  あの様子なら、客人は宣言した通り明日の昼過ぎにまた来るのだろう。  弟は客人が帰った後も、机に頬杖をついて戸を睨んでいた。  言いたいことだけ言って去って行った感の客人だが、  ただ、この勝負自体は面白そうだとアルメルも思っていた。  ……自分が賞品でなければ純粋に楽しめそうなのにと。 (2) 「勝負はともかく、賞品扱いなんてね」  その夜のこと。呆れたように独りごちて、アルメルは濡れた黒髪を手櫛ですいた。  二人の男が自分を賭けて戦うという状況になったら、劇的だと感じる女は多いだろう。  けれど生憎彼女の好みではなかった。 「酔いは醒めた? 貴族に正面から喧嘩売らなくたって」  アルメルは服を持って台所の前まで歩いてきた。  ユリスは食卓の椅子に逆向きに腰かけて、背もたれに肘をついてこちらを見ている。 「あんなの黙ってられないよ。酔っていようといまいとお断りだ」  ぶつくさ文句を言いながらも、視線は姉の体から外れない。 「……あんたはそうかもしれないけど。ところで何よ、さっきからじろじろ見て」  アルメルは体を洗った後で、まだ服を着ていなかった。つまりは裸なのだが、本人は弟が見ていようと鷹揚なもので、隠そうとも慌てて服を着ようともしない。逆に弟が着替えで裸であるのを見ても、彼女は気にも留めないが。 「傷痕。増えたよね」   荒事の商売なので体はあちこち傷だらけだが、そういうものだと割り切っていた。本気で嫌ならこんな仕事を続けはしない。 「そうね。でも仕事柄仕方ないじゃない。ユリスも似たようなもんでしょ。今更どうかしたの?」 「僕が見るのはいいけど他の男に見せるのは嫌だ」  彼らしい返答だった。 「そう思うんなら明日頑張んなさい」 「素っ気ない言い方だね。姉さんはさ、あのおっさんと結婚したいの? 嫌なの?」 「……あんたたちが勝手に私を賞品にしてくれたおかげでしょ、妙な話になったのは。私の意向はあるわよ。ただ、終わるまで黙っておく」 「どうして」  弟の前を通り過ぎ、寝室の前まで来て、アルメルは振り返って言った。 「戦う前から変にやる気なくされたら嫌だからよ。こうなった以上、筋は通してもらう」  夜が明けて、太陽が昇る。  いつもより早起きして稽古場で素振りしている弟に持って行ってやろうと、アルメルが着替えの後で鶏肉と野菜を焼いていたら、窓の隙間から外に猫がいるのが見えた。 「あらジュスト、あんた本当によく分かるのね」  ジュストはここらをうろつく白い猫である。アルメルが勝手に名前を付けた。鼻が利くらしく、アルメルが肉や魚を持っているときに限って出てくる。  窓を開けて鼻先に肉の切れ端をちらつかせると、にいと一鳴きしてジュストは肉にかぶりついた。  ジュストは居つこうとはしない猫だ。  夜露をしのげない日も、食べ物にありつけない日もあっても、それでも勝手気ままに動き回れるほうがいいのだろう。 「……あんたは、野良猫の生き方は、幸せだと思う?」  白猫は人語で返事をするはずもなく、肉を腹に収めると窓を離れて庭木の下で寝転がった。  前日の予告通りに、昼過ぎに客人はやってきた。昨日と同じような軽装で、腰から剣を下げていた。  屋外で待っていた姉弟に、これから戦うにしては陽気に挨拶をする。  気に入らない相手には不躾な弟が、客を比較的大人しく出迎えたのは、直接やりあう相手としては楽しそうだったからか。 「むさ苦しいところでごめんなさいね」  アルメルは稽古場にレナルドを通した。  中は簡素な板間。  親がいたころはここで生徒をとっていたが、今は完全に自分たち二人用の稽古場で、他者を入れるのは今回のように剣客が勝負を挑みに来たときくらいのものだ。  隅に訓練用の模擬剣も防具も置いてあるが、少なくとも弟は使いたがらないだろう。  レナルドは置いてあった模擬剣と防具をちらと見たあと、アルメルの方に視線を寄越した。どうするか、ということだろう。 「武器はお互い使い慣れてるもののほうがいいでしょ。防具はご自由に。私は基本、見るほうに徹するから、好きな頃合いで始めて。どちらかが降参したら終わり」 「ではそのように」  立会人相当のアルメルの返事を得て、レナルドはユリスのほうを向く。 「ということだ。遠慮は無用だ」 「僕なら最初からそのつもりだよ」 「……間違いがないように持たせてもらうわ」  どちらも服のままのようだ。アルメルはベルトにつけた剣の柄を軽く叩いて、後ろに下がった。  レナルドが剣を鞘から抜いたとき。 「いい剣持ってるね」  腰に吊っていた自身の剣を抜きながら、ユリスは緑の瞳に感心を宿して相手の得物を見た。  傍目ながらアルメルも同感だった。良くも悪くも、弟は嘘をつかない。 「持ってる人間は気に入らないけど」 「一言多いな、君は」  正直なユリスに、客人は苦笑する。  そして二人とも両刃の長剣を両手持ちで、相手の顔に向けて構えた。    構えから刺突に動いたレナルドを、ユリスは踏み込みながら流して防ぎ、こちらから突く。  レナルドはそれをかわして剣で防ぎ、ぶつかった刃同士を力で押して剣をすぐに引く。 そのまま続きに出されるユリスの斬撃を、ニ回、三回、と平で受けた。  双方が間合いを取り直して体勢を整える。  ほう、とレナルドは感嘆を漏らした。 「剣は誰に教わった?」 「父さんと母さんと叔母さんからだよ。姉さんも同じ」  ユリスは振りかぶって上から斬撃を入れようとしたものの、下段からの切り上げで防がれた。今度は剣同士の接触から刃を滑らせて、ひねって斬ろうとしたが、レナルドはこれも止めて払った。 「流派はたどれるか」  問いを、ユリスは否定した。 「確かめようがないよ。先祖はどこかの城で剣の指南役をしてただのって、酒が入ったときの父さんが言ってたくらい」  両者の連続する剣戟で、硬い金属の音が鳴る。  語った話が面白かったのか、レナルドは楽しげに笑んだ。 「それはあながち、間違いではないかもな」 「酔っぱらいの戯言だと思うよ。たとえ事実でも、どのみち僕らは単なる庶民だ」  ユリスは接触から剣をわずかに跳ね上げるように動かし、相手の頭部に刃を回す。 「……ちっ!」  けれども斬撃は弾かれ、舌打ちをした。  剣の打ち合いになった後、レナルドが剣同士の接触状態から剣を反転し、突き込む。ユリスは既のところでかわして、体勢を崩したところに上段から来る斬撃を剣で受けた。  もう一合。  もう一合。  「……」  観戦していたアルメルは表情を険しくした。  両者に腕力や得物の重量差はそこまでついていないように見えたが、ユリスが後手後手になるのはレナルドの攻撃が重いのか。   レナルドがどれほど場数を踏んでいるかは知らないが、器用さにおいても彼のほうに分があるのは見て取れた。  とんとんと、アルメルは自分の剣の柄を指で軽く叩く。  本人らが望んだ勝負だ。  事故になりそうでもない限り間に入るつもりはないが――  汗が顔を伝った。  じりじり後退させられる。  相手の刃が掠めて、ユリスの服の袖と腕の皮膚を切った。服の白い袖に赤い染みができる。  続きに繰り出された斬撃を剣で受け止めて、 「強いね」  ユリスは笑った。  押されているにもかかわらず、楽しそうに。 「腹が立つなあ。生まれがいい、武器もいい、強い……なのに姉さんを持って行こうとする」  板の壁がユリスの背に迫っていた。 「僕にあるのは、剣と姉さんだけだ。父さんと母さんがいなくなった日から」 「……」  わずかに相手の剣が揺らいだとき。  ユリスは一瞬の隙をついて脇から転がり出ると、レナルドの足を蹴った。体勢を崩した相手の左腕を引っ張って、右手の剣で首を狙う。咄嗟に、レナルドの剣が動いた。  両者ともが片手持ちの状態で、  ユリスの剣の刃は、レナルドの喉元に、  レナルドの剣の刃は、ユリスの首筋に―― 「そこまで!」  アルメルは一喝とともに、剣を抜き、床を蹴った。  双方の刃は相打つ前でぴたりと止まった。止まったが、弟も客も収める気配は全くない。  どちらの剣も強い敵意のこもったままで静止しているに過ぎない。  二人とも、自分が死ぬのは言うまでもなく、相手を殺しても大損だったのに。  レナルドの喉元の白刃を赤い液が伝った。少し切れていたらしい。  弟も客も、傍らに来たアルメルは横目で見るに留めて、敵意を互いに向けたままでいた。   このまま殺せるという強い敵意。  その気迫の渦中でも、動じることなくアルメルは唇を動かす。 「二人とも勝ちも負けもしていないなら、どちらにも従わなくていいんでしょ」  アルメルは緑の双眸で、未だ呼吸の整わぬ両者を交互に眺め、決然と告げた。 「私は今の生活がいい」  圧迫されるような重い無言が続いた後、先に剣を引いたのはレナルドだった。  アルメルが躊躇なくレナルドに突きつけた剣を見て、寂しげに。   (3)  客人が帰る前に少し話させてくれと言うので、アルメルは一緒に家の前に出た。  余計な茶々を入れられてまた荒っぽくなると厄介なので、弟は外させている。  レナルドはせっかく好ましい相手に出会えたのに惜しいと、殊に残念がった。 「ところで、この勝負とあなたの気持ちは関係しますか? 私、実は茶番に出て来ただけではないかと疑っているのですが」 「関係するかしないかならしないわね。でも、冷や冷やしたけど面白いものを見せてもらったわ」  でしょうね、お人が悪い、とレナルドは苦笑いした。 「弟のほうが姉に執着しているという噂は聞いていましたが、あなたのほうも、もしや同じなのではないですか」 「……まあ、それは、ね。でもあれを突き放して飲んだくれになられても困るのよ」  アルメルは微笑みながら濁した。  それに不器用な弟一人では、ろくに仕事を取ってこれないだろう。  逆に自分一人の場合も、見た目で頼りないと判断されて上手くいかないのだが。  レナルドは何とも複雑そうに嘆息した。 「この一件は、面白い知り合いができたものと思っておきます。繰り返しになりますが、私は負けたわけではありませんよね。もし、気が変わったら我が家においでください」  一礼して、客人は去っていく。  去り際にアルメルは、もしどこかで両親を見たら連絡してほしいと、簡単に頼んでおいた。   彼の人柄は嫌いではなかったから、面白い知り合いができたのは自分のほうもだと思った。それにお偉いさんの知り合いというのは、持っておいて損をしない。  ただ彼の言う「気が変わる」は多分、ないだろうけれども。  ロロの町に吹く午後の風が、アルメルの黒髪をなびかせる。  身体的にも、金銭的にも、明らかに楽になる生き方が降ってきたのにふいにしたのだ。叔母にこの話をしたらさぞ残念がるだろう。  けれどアルメル自身はこれで良かった。  体や金が楽でも、自分に上層の生活が合うと思えない。それに放っておけないものがある。 「姉さん」  去りゆく客人の姿が完全に見えなくなってから、弟が寄ってきた。  態度から棘が抜けたようだったのは、レナルドが帰ったからか、それとも直接やりあってある程度落ち着いたからか。 「強い人に久しぶりに会ったよ。いつかの大会以来かな。でもさ、これなら姉さんも最初に断ればよかったんじゃないの? 結婚の話」  昨日、本人を飛び越えて勝手に試合を決めたのは誰なのだ、と言いたいのを堪えてアルメルは聞き返した。 「じゃあ今日は損したと思ってる?」  ユリスは首を横に振った。  「そりゃそうよね。あんた昨日、やりあいたくてうずうずしてますって顔してたし」  弟の頬を指先でぺちぺちと軽く叩いて、アルメルはにこやかに続けた。  「ま、家の中に入りましょ。今日の夕飯は私が作るわ」 「作るのは僕の番じゃなかった?」 「いいのよ。傷は大事ないわよね? 切れた服は繕うから後で寄越しなさい」  *  その夕に台所にあったのは野菜だけだったので、質素な野菜スープが姉弟の食卓に上った。 「野菜ばっかりか。肉が欲しかっ……いや、食べるよ。いただきます」  求婚を受け入れていれば食事は全然違ったのだろうけれども。 「野良猫の生き方を選べばこんなものよね。ねえ、ジュスト」  アルメルは窓の外の闇に呼びかけるが、今夜は肉も魚もない。  白猫のジュストは当然、出ては来なかった。  (姉と弟と求婚者・了) ■2 姉と弟と占い師 (1)  腰に剣をぶら下げて、アルメルは市の見回りをしていた。   なるほど今年のダルガンの初夏の市は、出店も客も多いようだ。    ダルガンの町は、ロロの町から街道沿いに東に一日歩いたところにある。  今回の雇い主はこの市の元締めで、依頼内容は市の警備だ。  場所取りで揉める商人の出た昨日と違って、今日は天候と同じく概ね穏やかでいい。  別区画を見回っている弟のユリスは退屈していそうだが。  町の中心部の広場と大通りを中心に、商店の通り、職人の通りが出店と客で賑わっている。  客を呼び込もうという、威勢のいい商人の声がそこかしこで聞かれる。 「今朝仕入れたカルバロの実だ。いい香りだろ、中も甘いんだぜ。さあ買った!」  籠に赤や黄色の果物を山に盛って、大きな声で客を集める者。 「テルブ川で獲れた新鮮な魚だよ。ほらお姉さん、一皿どうだい?」  川で獲れた魚を売る者。 「この机、椅子、どれもこれもうちの工房の自信作だ。見てってくんな」  動物の彫り物から小さな箪笥まで、木材の加工品を売る者。  西のほうから流れてくる香ばしい匂いは、豆でも炒っているのだろう。  客は客で、編み籠の値切り交渉を続けている抜け目のない中年の女性や、装身具の店の前でおねだりをしている女と困った顔をしている男の二人連れ、刃物屋ではさみをいくつも持って来させては見比べている園丁らしき老人などなど、市を大いに利用しているようだ。  アルメルも小麦粉と卵を混ぜて油で揚げた菓子をかじりながら、石畳を歩いて回っていた。こっそり菓子を袋に入れて盗もうとしていた子供を引っ掴んだときに、その店の商人からお礼にもらったものである。  町の規模はダルガンのほうがロロよりも大きい。  せっかくダルガンの町に来たのだから剣があれば見たいと思うのだが、防犯の規定で市で武器は売らないことになっていた。  剣を探すなら市が終わってから店を訪ねろと、雇われた時に言われている。  子供のころ、父親と母親に連れられて弟と一緒にこの市に来た時も、市の終わった後で店まで見に行ったものだ。  目の前を、親子連れの客が歩いている。子は父の服を引っ張って、楽しそうに笑っていた。 「……うちはどこに行っちゃったのかしらね」  誰に言うでもなく呟いて、アルメルは菓子の最後の一かけらを口に放り込んだ。  親がいなくなってから、もう十年にもなるか。  二人は依頼で出かけたきり戻らない。  誰もが死んだものと思っているようだが、せめて自分くらいは無事を――  ……考え事をしていたせいで、喧騒から離れた一角に来てしまったようだ。  場所があまりよくないこともあって、客は少なかった。商人のほうも、中央部に比べてそんなに覇気がない。  ふと、変わった香りが鼻を掠めた。甘いが、菓子や果物の匂いとは違う。  香りのほうに視線をやると、市の隅、ペルの木の横で、東方の異国を思わせる敷物に、フードを被った人間が一人で座っていた。細かい刺繍の入った上着は裾も袖も長く、ひきずるほどだ。  相手は顔を上げた。若い女だった。  唇には鮮やかな紅。三つに編んで垂らした長い黒髪に、月のように輝く金色の瞳。首にも耳にも手首にも、しゃらしゃらと貴金属の飾りをつけていた。  女はアルメルを手招きした。 「あなた女の子よね? そんな格好で剣下げてるから、最初は男の子かと思っちゃったけど」 「ええ」  動きやすい服装を求めれば男装に近くなる。  腰の剣も、一般的な両刃の長剣より一回り短いもので、つまりは子供用サイズだ。  疾うに成人しているのに女の「子」と呼ばれるのはなんとも複雑だが、己が身にはよくある事なので聞き流した。いちいち不機嫌になっていてはきりがない。  アルメルは女の前で脚をかがめた。 「あなたは何を売るの?」 「占いよ」  女はにこやかに答えた。    占い師か。確かにそういう身なりではある。だが、客がいないのは場所のせいとしても、商い中にしては彼女の前には道具の一つも置かれていない。店じまいにしては早すぎる。  ……許可証を確認してから元締めに報告するべきだろうか?  少しの逡巡の末、アルメルは自分が元締めに雇われた身で、市の見回りをしていることを女に話した。 「許可証を見せてもらえる?」 「巡回中の警備兵さんだったのね。はい」  アルメルは差し出された紙を確認した。書かれた筆跡は元締めのもので間違いないようだ。  ……しかし、なぜか妙な不安を覚える。 「協力ありがとう、これはお返しするわ。あなたの名前は?」 「ナナアリサ」  偽名めいたものを感じるが、 「占い師って、本当の名前を簡単に教えたりしないものよ。だってそのほうが神秘的でしょ」 「……」  女はさらりと言う。  偽名だと認めているに等しいが、まあ、いい。彼女の言うとおり、占い師なら商売の都合で名前を隠したいこともあるだろう。それに許可証は本物だろうし、特に問題を起こしたわけでもないのに、立場を笠に着て彼女を質問攻めにするのは気が引けた。 「ごめんなさい、お邪魔したわ」  アルメルが巡回を再開しようとしたとき、 「待って待って。急がないでよ。いいでしょ、ちょっとぐらい」  ナナアリサに服の袖を引っ張られた。彼女のフードの下には、瞳をきらきらさせた商魂たくましい笑顔がある。  ……彼女に占いの客だと認識されたようだ。  しまったと思ったが、もう遅い。 「占いといえば恋愛でしょ? 運命の出会いはあるのか、占ってみない?」 「……そういうのは私はいいから」 「ああ失礼、もう好きな相手がいるのね。じゃあ彼の気持ちを知りたくない? ね?」  断っても彼女は食い下がってくる。この執念、よほど閑古鳥でつらいのだろうか。 「それも、まあ、本人見てれば大体分かるし」 「あらら、それじゃあ、二人の将来は」 「……それは」  ぎくりとして、アルメルは言い淀んだ。  アルメルの顔を見たナナアリサは、きまり悪そうに袖から手を放した。相手の事情への踏み込み加減を間違えたと思ったらしい。 「ごめんごめん、不快にさせる気はなかったのよ。恋愛はやめて、金運にしましょ? ね?」  一方的に話を打ち切って、アルメルの返事も聞かずに、占い師は親指ほどしかない小さな布袋を取り出した。そして、袋の中の粉を、手のひらの上で広げた。  途端、甘い香りが広がる。  彼女は粉をさらさらと、わずかずつ手の指の間から下に落とした。手の中の粉がなくなると、 「臨時収入が欲しいなら、今夜の四の刻、市の東、外壁の残骸に来るべし」  ナナアリサはゆっくりと告げた。 「……何それ」 「香りはそう示してるわ。きょうだいで飲むお酒の代金くらいにはなるんじゃない? もちろん判断はあなた次第だけど」  女占い師は、紅い唇でにこりと微笑んだ。 「ところでナナアリサ、尋ね人は占える?」  アルメルは思いつきを口にした。  占いなどそう当たるとは思っていない。でももしかしたら。もしかしたら、何か、両親に繋がるものが得られるかもしれない。  けれど、ナナアリサは首を横に振った。 「ごめんね。あたしが占うのは一人につき一日一回なの」 「……そう」  正直、断られるとは意外だった。先程のがっついた様子なら、喜んで仕事を引き受けると思っていた。  一日に複数の事柄を占わないのは、商売上あまり得をする方針とは思えない。霊気を養う等の雰囲気付けのほうが、彼女にとっては優先なのだろうか。  しかし、こちらの気持ちがどうあれ、占い師本人がそう言うなら引き下がるほかない。  再び彼女の前から去ろうとしたとき、またも服の袖を掴まれた。 「……今度は何?」 「お代。占いのお代をくださる?」  ナナアリサはしれっとしたものだった。差し出された手のひらに、アルメルは何だか腹が立ってきた。 「あんたが勝手に占ったんじゃないの。しかも本当に聞きたかったことはもう無理だなんて」 「でも一回は一回よ。ね、お代」 「……強引な商売してるって上に報告するわよ」  少し脅すように言ってやると、不満を顔に浮かべながら、やっとナナアリサは引いた。  「またよろしくね」という女占い師の甘えた声を背に、アルメルは市の中に戻った。  すれ違う客がちらちらこちらを見てくるのは、ナナアリサの使った粉の甘い匂いのせいだろう。  石畳を歩いていて、思い出す。  自分はナナアリサに、きょうだいがいるとも、酒が好きだとも喋らなかったはずだと。  気になって引き返すが、市の隅のペルの木の横から、女占い師の姿は消えていた。    (2)  日が暮れる前にはみな店を片付ける。  アルメルは閉店の店を見回って、最後に詰所に一日の報告と記帳に行った。  その足でナナアリサという占い師を調べたが……帳簿にそんな名は見当たらなかった。  あの場所で商売許可を得ている者はいたが、登録はなぜか鉢売りだった。 「今日はどうだった?」 「スリと追っかけっこしたよ。捕まえられてよかっ……ねえ、姉さん、それ何の匂い?」  宿の部屋に戻り、寝台に腰かけて油布で剣を拭いていた弟のユリスの前を通ったとき、彼は顔をしかめた。  あの占い師の香がまだ残っていたのだろう。 「甘ったるくて気持ち悪い」  ……よほど弟はお気に召さないらしい。  アルメルは服を脱いで、窓を開けて軽くはたき、もう一度着直した。  洗濯は今は無理なので、気休めでしかないが。  アルメルは弟に、昼間会った占い師について話した。 「外壁の残骸? どうして夜にそんなところに」 「さあ、よく分からないわ」  しかも、どういういきさつで金が得られるというのか。 「許可証が偽造かどうかは置いといても、申告したのと違う店を開けていたのは引っかかるね」  アルメルは頷いた。偽りを申し出るのは、後ろめたいことのある場合が大半だからだ。 「明日同じ場所に行っても、彼女はもういないでしょうね」 「うん。会えるとすれば、外壁だっけ? 今夜そこに行くくらいしかない」  占い結果として、具体的な時間と場所の指定がされたのは気になった。何かが来ることになっているのだろうか。  ユリスは剣の刃を確認し、鞘に納めた。 「仕事の時間でもないのに怪しいものに関わるのもなあと思うけど、姉さんがすっきりさせたいなら付き合うよ」 「ありがとう」  話の続きは宿の一階の食堂で、夕飯をつつきながらしようとなった。  この依頼、宿代食事代が雇い主持ちなのが助かる。  階段を下りる途中、自分とすれ違う他の客が妙な顔をしたのは、弟と同じで匂いが気になるからだろうか。自分は鼻が慣れてしまったのか、あまり分からない。  食堂で出されたのは固いパンと小さなチーズ、申し訳程度に肉の欠片が入ったスープだった。  ただでありつける食事なのだから文句はない。  結局、何かあったら元締めなり正規兵なりに報告することを条件に、占い師の言っていた時間と場所に向かうことにした。  今夜は満月だった。  夜の闇の中、天上で輝く丸い月。  美しいがどこか禍々しい。  あの女占い師の瞳のようだと、アルメルは思った。  ダルガンの町は人口が増えて、町の外壁の一部を壊し、新たに造り直そうとしている。  けれど工事費の工面が付かないだとかで、壊すまでは出来たが造るほうはまだ着手されていない。  戦争が起こる前にさっさと直すべきなのだが――まあそれは、自分が考えても仕方のないことだ。  ナナアリサが言っていた「市の東」は、壊した外壁の瓦礫が未だに転がる一帯である。  大小の破片が落ちていて、足場は悪い。夜ならなおのこと足下に注意がいる。  酔っているらしい男女二人が崩れた樹木の陰にふらふらと隠れたが、あれは単なる逢引きで、ナナアリサの件とは別だろう。  月明かりの下、姉弟は大小ある外壁の残骸の中央に向かった。ちょうど人間が一人二人隠れられそうな壁の残骸が、撤去されず残っていたからだ。  二人は壁の裏に回り、寄り添って周囲に視線を遣った。  緑目の黒猫が壁の陰に隠れて辺りを窺うように。  そうしてちょうど四の刻になった頃だろうか。  人影が、この外壁の残骸に近づいてきていた。  ナナアリサではない。男のようだ。背が低く小太りで、フードつきの汚れた外套をまとっていた。顔はよく見えない。枕よりやや小さいくらいの、何かが詰まった袋を持っている。  足音は、姉弟のいる外壁の残骸の裏で止まった。 「……ナナアリサか?」  男は低く淀んだ声で、女占い師を呼んだ。  アルメルとユリスは剣の柄に手をかけた。  こちらに回ってくるなら堂々と出てナナアリサに言われた話をすべきだが―― 「ああ、出てこなくていい。そこにいるのは分かる。検品したいって言うから一袋抱えて来たぜ。残りは別の場所に隠してある」  男はその場で喋り始めた。アルメルは自分の服を指でつまんで、隣のユリスに目くばせした。彼は無言で頷く。  匂いだ。  服についた匂いで、自分をナナアリサと間違えたのだ。  警戒は解けないが、これでしばらく様子が見られる。  二人はいつでも飛び出せるようにして、男が喋る話にも注意を払った。  ……夜中に取引の話をするものなんて、歓迎したい品ではなさそうだが。 「こいつをどこで売る気だ? ダルガンか? ロロか? 人が増えて、おまけに外壁が直ってねえダルガンのほうが、動く拠点にゃいいだろうけどよ。  都は取り締まりが厳しくていけねえ。法にどっぷり浸かった堅物だらけだ。この間、俺の連れから買ってった奴から、一気に締め上げを食らってる。都……いや都を含めて北東部で広げるのはきついだろうな」  男は苦々しいとばかりに舌打ちをした。  話を聞く限りではあるが、壁の向こうの男が持つ袋は、何らかの違法物だ。  今は仕事中でもなんでもなく、しかも正規に治安を任される身でもないが、ここまで聞いてこの男を放置して帰れるかと言われると、無理があった。自分たちの住むロロの町の名を出されているのも気になる。 「かと言って南部は……なあ、おい、ナナアリサ。出てこなくていいとは言ったが、返事ぐらいはしろよ」   男は少々苛立った様子だ。だが、自分たちに返事など出来るわけがない。  声を出せば別人と知れる。 「ナナアリサ、どうした」 「……」  さすがにだんまり続きでは、男にもいよいよ不審に感じられたのだろう。  こちらに来ようとする、ゆらっとした男の動きが壁の縁からわずかに見えたとき。  アルメルが剣を手に、さっと飛び出した。 「な、誰だお前――ぐぅっ!?」  動揺した不意を衝いて、アルメルは剣の柄頭で男の頭を殴った。  男はよろめいて、持っていた袋をどさりと落とす。  アルメルはすぐに袋を拾った。予想外の事態に反応できず、隙だらけになった男の首に、後ろからユリスが白刃をぴたりと這わせた。 「動くな」  脅しをかけ、ユリスは男の外套の下から腰にくくりつけられていた短刀を奪っておく。 「ちょっと預かるわよ」  袋を瓦礫の上に置くと、アルメルは自分のベルトを外して、男の手首を縛り上げた。 「横取りか? ふざけんなよガキども!」  剣を首に当てられたまま、怒気を込めて男が呻く。 「お前ら偶然ここに居たわけじゃないな? 誰に聞いた? その匂い、まさか」  ユリスが一瞬、不快を顔に出した。宿の部屋でアルメルが彼の前を通った時のように。 「いい眺めね、シャガル。お二人はこんばんは」  刹那、聞き覚えのある女の声が三人の耳朶を打った。ナナアリサだ。  上半身は長い上着を脱いでいて、豊かな胸を部分的に覆う布をつけただけ。透けるほどに薄い布地のストールを腕にからめた姿は、占い師というより踊り子だ。 「ナナアリサ! こいつらは誰だ? お前は何を考えてる?」  シャガルと呼ばれた男は唾を飛ばして吠えるが、ナナアリサは平然としていて、彼に応じない。  袋を訝しげな目で見ていたアルメルに、声色優しく語りかける。 「中身は干し草よ。煙を吸うと、それはいい気分になれるわ。この国ではご法度だけど」 「……麻薬を持ちこんでたのね」  ナナアリサは頷いた。 「その男と袋を町に突き出せば、手当くらいは出るんじゃない? もちろん、その男をここで殺して、袋をどこかで売ればいい値段になるわよ」 「ナナアリサだっけ? 綺麗な顔して怖いことをするね」  ユリスは冷やかにナナアリサを見ていた。シャガルのくぼんだ目には強い憎しみが光る。  アルメルは彼女に率直に尋ねた。 「仲間を売るの?」  問いかけに、女の紅い唇がすっと弧を描いた。  一欠片の罪悪感もない軽い口調で言う。 「ええ。だって飽きたんだもの」  はらわたの煮えくり返っているらしいシャガルが、ぎりぎりと歯噛みした。 「ナナアリサ、俺は今夜の受け渡しに一人で来たわけじゃねえぜ」  けれどナナアリサは侮蔑の乗った声で笑う。揺るがぬ自負に満ち、傲然としていた。 「あはははは、ああそう。でもそんなこと、あたしが知らないわけないでしょう?」 「……!」  シャガルははっとした様子で、消え入るように覇気を失っていった。先程までの威勢が、怯えに変わっていくのが見て取れた。 「じゃあね」  ナナアリサはひらひら手を振って、堂々とこちらに背中を向け、小さな瓦礫をひょいひょいと飛び越えて去って行く。 「待ちなさい!」  抜き身の剣を手に、アルメルはナナアリサを追う。  男の悲鳴が後ろのほうで上がった。弟が、逃げられないようにシャガルの脚の腱を切ったようだ。次に猿ぐつわでも噛ませているのか、くぐもったうめき声になる。    追いつくのはすぐだった。彼女が足を止めたからだ。   ナナアリサの前方に、フードがついたぼろの外套を羽織った男が二人、瓦礫に足を置いて幅広の片刃剣を抜いていた。二人ともシャガルよりは背があるが、体は細い。 「そこまでだ、ナナアリサ」 「ヤン、イジー、シャガルを助けなくていいの?」 「……お前は逃がさん。奴はそれからだ」  優先はシャガルよりナナアリサらしい。彼ら二人が、先程シャガルを捕らえたときに出てこなかったのは、まだナナアリサの姿が見えなかったからか。  これほど好き勝手に振る舞う彼女の性格を、彼らが知らないとは考えにくい。付き合いづらいことこの上ないだろうに、それでも彼女に逃げられては困る理由は、アルメルにも大体想像がついた。  占い師、と本人は言うが…… 「やだ怖い。守ってくださる? アルメル・ラウラス」 「嫌よ」  猫なで声のナナアリサをアルメルは一蹴した。この女に関わったらろくなことにならない。単純に、調子のいいことを言う女はあまり好かないというのもあるが。  ナナアリサはくすくす笑って、自分の耳元で囁く。 「残念ね。両親について教えてあげてもよかったのに」 「……本当によく知ってるのね。あなた一体何者なの?」  ナナアリサは月の光の下で霊感を強めたような、金色の瞳を輝かせた。 「あたし? あたしは占い師……もしくは、予言者。全てを知る者」   (3)  アルメルはナナアリサの霊性を疑わなかった。  喋ってもいないのに、自分の名前と、親について情報を欲していることさえ知っているのだ。  しかし……自分以上に奔放で気分屋の女など、まともに相手をしたくない。  飽きたら仲間を平気で捨てる彼女のことだ。言われた通りにしたところで、彼女が答える保証は、ない。 「あなたが嫌なら仕方ないのよね。残念だわ。まあ、世の中知らないほうがいいことも多いけど」  残念なのは本心のようだ。だが、アルメルはナナアリサの喋り方が癪に障る。強者が弱者を嬲るときのそれだからだ。  どの程度の期間の付き合いなのかは知らないが、この女と組んでいたシャガルやヤン、イジーはさぞ苦々しい思いをしてきただろう。 「一日一回しか占えないんじゃなかったの?」 「そうよ。だから日が変わったら、ね」  ……ナナアリサの軽薄な物言いは、どうしても都合のいい方便にしか聞こえない。 「……ナナアリサを渡し、シャガルを置いてここから帰るなら見逃してやろう」  アルメルから見て左手側の男の言葉に、アルメルは自然、にやりとした。 「あらそう? じゃあ、そうさせてもらおうかしら」  笑い話だ。相手も、自分も、心にもないことを言っているのが明け透けだ。  ヤンとイジーと呼ばれた二人が、お互いをちらと見た。頷くと、アルメルから見て右手側にいた男が、ナナアリサとアルメルに近づいてきた。 「……」  男は無言のまま、素早く片刃剣をアルメルに振り下ろし――  頭上で金属同士のぶつかる音が響いた。 「……そうでしょうね、そう来ると思ってたわ!」  アルメルはまたにやりとした。当然だ。自分たち姉弟を生かしておく気はないだろう。  一方でナナアリサが、もう一人の男に引っ張られるのが見える。 「ユリス!」  アルメルは弟の名を呼んだ。  呼ばれる前に彼はすでに動いていたようで、もう一人の男を追って剣を向ける。  アルメルは咄嗟に自分の剣の刃の中央やや上を左手で持ち、片刃剣の斬撃を止めていた。  ぶつかった剣と剣がずるずると、アルメルの頭のすぐ上まで下がる。  子供のひ弱な腕と見て、相手はこのまま力任せに押し切るつもりだろう。  ……舐められたものだ。足下を蹴ってやった。 「!」  ここは瓦礫だらけ。しかも夜。足下が不安定になり相手がぐらついた隙に、アルメルは剣の刃の中央やや上を持ったまま男の喉を突いて、引き抜いた。  男は何かを喋りたそうにしたが、喉から血が溢れるだけだった。倒れた下の瓦礫に、血だまりができていく。震える手から片刃剣は遠ざけておいた。 「イジー!?」 「よそ見してる暇あるの? っと、ナナアリサ、待て!」  アルメルの左のほうから、ヤンとユリスの声がした。金属刃が二つ光ったのが見えたが、双方が一旦剣を引き、瓦礫に紛れる。  弟とヤンの両方が、ナナアリサを見失ったのか。  ……ナナアリサはどこに行ったのだろう?  満月の日とは言え、夜は夜。見通しは悪い。剣を手にしたまま、アルメルもナナアリサのいた辺りに向かう。  ずるり、という衣擦れの音。  どきりとして、アルメルは息をひそめた。どこだ。誰だ。 「……せめて、あいつだけでも」  呪いのこもった低い呻きが、近くから耳に届いた。ヤンだ。  身をかがめ、片刃剣の柄を握りしめて探す先は弟か。闇ではっきりと表情は見えないが、かたかたと歯を震わせているようだ。  賊であっても、享楽的で気まぐれなナナアリサよりずっと義理堅いのかもしれないが――  だからと言って余計な思慮をしてやる必要は、こちらにはない。  ヤンが片刃剣を振りかぶろうとしたとき。  彼の背後から、アルメルの剣が胴を貫いていた。   「ごめん、助かったよ姉さん」 「いいのよ。もともと私があんたを付き合わせたからこうなったんだし」 「それは気にしてないよ。姉さん一人で行かせるほうがよくないから」  イジーの死体のあるほうを一瞥し、ヤンの死体を見下ろして、ユリスはため息をついた。 「ダルガンの役人が物わかりがいいことを祈ろう」  ナナアリサの姿は見当たらなかった。  禍々しい満月の光に惑わされ、踊らされていたかのような気分だ。    アルメルは唇を噛んだ。  夜の瓦礫の山に賊の死体二つ。  それから縛られて芋虫のようにごそごそうごめく賊一人と、袋一つが残った。  *  シャガルは袋と合わせて役人に突き出しておいた。  彼と死体二つについてあれこれ聞かれた後、いくらかの手当金を受け取って、姉弟は翌日、市の見回りの仕事に戻った。  まだダルガンの初夏の市は続いているからだ。 「北の山の中で獲れたアサカの肉だよ。脂がのって最高だ! 安くしとくよ」 「珍しい小鳥を飼ってみないかい? この羽、尻尾、綺麗な色だろう?」 「ほーら今焼けるよ、おいしいおいしいシグリの塩焼きだ」  昨日と変わらず、市の商人は客引きに熱心だ。通る客も昨日と同じように、活気と賑わいに満ちた市での買い物を満喫している。 「……そこの子、いい香りのする匂い袋はどう?」  匂い?  呼びかけに釣られてアルメルは店のほうを向いたが、薹の立った赤毛の女が微笑むだけだった。アルメルはごめんなさいと、手を横に振った。  ペルの木の横に女占い師は姿を見せない。  市の中の占い師を捜しても見つかるはずもない。  許可証と登録の件は元締めに伝えたが、管理に関してはどうもあいまいな返事しか返って来ないので諦めた。ナナアリサが去ってしまったであろう今、追及したところで無益だ。   初夏の陽光は明るいのに、アルメルの気分は晴れなかった。  大損をしただろうか。あの時、ナナアリサを守ると答えていたら、もしかしたら彼女の気まぐれで、両親について教えてもらえたかもしれない。  アルメルはふるふると頭を振った。  何にせよ、もう遅い。  役人からもらった手当はさっさと酒に換えて弟と空けてしまおう。そう思った。  (姉と弟と占い師・了) ■3 姉と弟と狩人 (1)  ぱちゃん。  両の手で水をすくって、アルメルは顔を洗った。  今回の依頼は、ロロの町から北の山間部にあるリジューの村へ、書簡を配達する仕事だ。  その途中、休憩も兼ねて小川で砂と汗を流していた。  黒髪から垂れたしずくが、肩や乳房を伝って胴を流れ落ちていく。  夏に差し掛かり、日差しが徐々に強くなる中、冷えた水は気持ちがいい。  日常的に活発に動き回る人間らしく、体つきは引き締まって健康的だ。  だがその胴にも手足にも刻まれたいくつもの傷痕は痛々しい。本人が小柄で、容貌に未だ幼さが残るせいでなおさらだった。 「リジューには日が暮れる前に着けば十分だから、もう少し浸かってていいよ」  小川べりの石に腰を下ろし、弟のユリスが言う。裸で水浴びをする姉を見ながらだ。  小柄な姉とは違い、弟のほうは背もあって、剣を振う姿は誰の目にも勇猛なのだが……今は単なる、荷や剣や服の見張り役に過ぎない。 「……?」 「どうしたのよ」  何かが気になったらしい。  ユリスは手元に剣を寄せた後、小石を拾って右後方の藪に投げた。 「ぶぐ!」  ……途端、奇妙な声が上がる。 「ってー、何すんだよ!」  木の枝をがさがさと分けて出てきたのは少年だった。  年齢は自分たちより十歳くらい下か。ぼさぼさで短い茶色の髪の上から頭を押さえ、こちらを睨んでいる。  本気で怒っているらしい本人には悪いが、幼い上に顔立ちに迫力がないので、睨まれたところで別にどうということもない。  ユリスは立ち上がると剣を抜き、少年の頬に剣の平を当てた。少年の顔色がさっと変わる。 「追いはぎ?」 「ち、ち、違うって」  少年はぶるっと震えた。 「どこかで僕たちを殺せと頼まれた?」 「そんなんじゃねえよ」  少年はびくびくしながら否定した。 「……覗き?」 「のぞ……お、お前だってその女のハダカを堂々と見てたじゃねーかよ」  少年は焦り出した。  覗きで正解らしい。恥ずかしさで同罪者を探したくなったのか、ユリスを巻き込もうとしたが、 「僕はいいんだよ」  弟は何食わぬ顔で流す。少年はどうしてだよと喚いたが黙殺された。 「覗きだね。姉さんどうする? 目をえぐり取ろうか?」 「姉さんって……お前、実の姉ちゃんのハダカを見て喜んでるのか……うわっ!」  弟が不穏なことを口にして、手首をひねって刃を向けたので、少年は首をすくめた。 「やめなさい、ユリス。相手は子供よ」 「子供でも男は男だよ。だからさ、裸で堂々としてないで早く服着て」  まだ小川の中で裸でいたアルメルに、ユリスは困った様子で言う。 「さっきはもう少し浸かってていいって言ったじゃない」 「他の男に姉さんの裸を見せるの嫌なんだよ」  弟は辟易した口ぶりだった。いい加減理解しろと思っているらしい。  けれども当のアルメルは気にしていない。子供相手にそう神経質になることもないのにと、平然としたものだったが…… 「姉さん、お願いだから」  不必要に弟の機嫌を損ねるのも馬鹿げていると思い直し、アルメルは大人しく水から上がって服を着ることにした。        少年の名前はカッツと言うらしい。目的地であるリジューの村に住んでいるそうだ。  出会った縁で、村まで案内してもらうことにした。言い出したのはアルメルだ。弟は先程の覗きが気に入らないのだろう、カッツと歩くのは不満があるようだったが、今のところ従っている。  子供の足に合わせるのだから歩みは普段より少し遅いが、これはまあ仕方ない。  カッツは根から陽気なのか、道中よく喋るし、白い歯を見せてよく笑う。 「手紙持ってきてくれたのか。オレ、自分の名前しか書けないんだよなあ」 「親は教えてくれないの?」 「父ちゃんも母ちゃんもオレと同じなんだ。まともに読み書きができるのは、村の中じゃ村長と、あと何人だったかな……」  丘陵の間の曲がりくねった道を、三人で歩く。  斜面には、ペルやウルカの果樹が植えられていた。どちらも秋の果物なので、今の時期は葉が茂るだけである。 「なあ、姉ちゃんたちは親から読み書きを教えてもらったんだよな?」 「ええ。父さんと母さんと叔母さんと、あと叔母さんの旦那さんからね」 「いいなあ。読み書きができて、そんな剣もあって」  カッツはアルメルとユリスの腰にある、長剣をちらと見た。 「やっぱりその剣も習ってるんだよな?」 「父さんと母さんと叔母さんからね」 「……ちえ。オレ、そういう家に生まれたかったな」  カッツは口を尖らせた。  姉弟は内心複雑だった。羨ましがられるような生まれではないと思っているからだ。  自分たちは単なる平民だ。それにこの家業は、決して「綺麗」でも「楽」でもない。  気落ちしたカッツに、ユリスが声をかけた。 「ロロの町に、僕らの叔母さんが剣の訓練所を開いてる。頼めば教えてくれるよ。授業料がいるけど」 「ねえよ、金なんて。習う金も、剣を買う金も」  カッツを余計落ち込ませるだけになってしまったようだ。ユリスはばつが悪そうに、短い黒髪の上から頭を掻いた。  細い山道を登って、木の門が見える。木材と白い漆喰で出来た家の集まるそこが、リジューの集落のようだ。 「着いたぜー。手紙なら村長の家に持ってってくれ」  カッツが村の中を手で差し、朗らかに言った。  カッツに言われた通り、姉弟は集落の中央にある造りの頑丈な家を訪問する。  住んでいた村長――禿頭の小柄な老人から、書簡の配達の謝礼を受け取って、二人は外に出た。  ……ぼさぼさ頭の少年が、村長宅の玄関前で待機していた。姉弟の顔を見るなり、準備万端とばかりににこりとする。 「カッツ、待ってたの?」 「そりゃもう、せっかく村に来てくれたお客だからな」  ここはロロやダルガンのような街道沿いの町とは比較にならない小規模な村だ。純粋に訪問者が珍しいのだろう。  日は大分傾いて、夕の赤さを持ち始めていた。姉弟は互いに目くばせした。ユリスが、カッツの目の高さに合わせてかがむ。 「それじゃ、案内してもらおうかな。宿があればそこがいい。民家でも、部屋を貸してくれるなら十分。くるまる掛布があればなおいい。食事も出してくれるなら万々歳」 「よし来た」  ユリスから駄賃の小銭を受け取ると、カッツは集落の家と家の間の細い通路を元気に走っていく。ある家の前で止まると、こっちに来いよと大きな声で姉弟を呼び、ぶんぶんと手を振った。  少年の活発な様子に、アルメルは自然と表情がほころんだ。 「元気でいい子ね」 「そう?」 「あんたが子供のころはすごく閉鎖的だったじゃない。あれに比べればずっと健康的よ」  ユリスは返す言葉に困ったらしい。黙ったまま、カッツのほうへ歩いて行った。 「カッツ、帰ってくるなり何だい」 「手紙を持って来た人が、今夜の寝るところを探してるんだって。部屋空いてたし、うちで泊めていいだろ?」 「お前、そういう話は母ちゃんに相談してからにしとくれよ」  カッツと中年の女性が、軒先で交渉を始めた。  聞こえてくる話の内容からするに、彼女はカッツの母親らしい。  アルメルは彼女に近づいて、自分の身の上を話し、改めて泊めてもらえるか聞いた。 「うーん、そうだねえ、食事代くらいはもらえるなら……」  それで十分だ。アルメルは彼女に二人分の食事代としていくらか金を握らせ、一晩部屋を貸してもらうことにした。 「まあ、お世辞にも綺麗な部屋じゃないけどね……おや、ギヨさんお帰り」  カッツの母が、息子でも、アルメルでもユリスでもない相手に呼びかける。  長弓を携えた大男が、家の前に来ていた。 「……アサカが獲れた。もらってくれ」  大男は、カッツの母に褐色の羽の山鳥を差し出した。  年は五十前後だろうか。弟より、背も幅も一回りは上の巨漢だった。上半身の筋肉は盛り上がり、左右で腕の長さが違う。黒髪に白いものが混じっていて、あごひげを蓄えていた。  大男はじろりと、こちらを見た。  彼が凝視したのは、ユリスと自分。それに、自分たちがぶら下げている長剣。 「すげえ。母ちゃん、これ夕飯だよな? オレ腹減ったよ」 「お前はそればっかりだね。ギヨさん、いつもありがとうよ。台所に置いておくれ」 「分かった」  ギヨという名の大男は、のそりのそりと、家の中に入って行った。 「……僕たち歓迎されてないね」  弟が言う。同感だった。剣で武装した二人組を警戒するのは変なことではないが、警戒というより敵対心に近いものを感じたのだ。  それからもう一つ、勘が告げているものがあった。おそらく弟も同じことを思っただろう。 「今の人は、ずっとこの村にいるの?」  アルメルは尋ねた。 「ギヨさんかい? いいや、カッツが生まれる前にこの村に来たんだよ。あたしらの家の、まあ、居候だね。昔から弓が上手くてね、今もこうして狩りに出ては獲物を獲ってきてくれるのさ。畑も手伝ってくれるしね」  カッツの母は、彼がいると助かるのだろう。  自分たち二人を泊めてもいいと判断したのは、同じく余所者のギヨの例があるからなのかもしれない。 「今日の夕飯はアサカだね。豪勢だ。さ、あんたたちもお入り」 「姉ちゃんも兄ちゃんも入った入った」  カッツ母子の威勢のいい声に押され、姉弟は今日の宿りに入った。  先程の大男について気になったことは、頭の片隅に置いて。   (2)  依頼で行く先々で出される料理は、旅の疲れを癒してくれる。  例えば羽振りのいい豪商が依頼主だったときには、その相伴にあずかるのが、姉弟の楽しみの一つだった。  田舎はそもそもの素材がいいから、宿や食堂は簡単な下ごしらえと調理でも十二分に美味なものを出してくる。  晩の食卓に並んだのは、アサカの肉の塩焼き、茹でた青菜、焼いたパンとチーズだった。 「おいしい!」  脂ののったアサカは、同じ鳥でも鶏肉とは全く違ううまさだ。  舌鼓を打って料理を口に運ぶ姉弟を、カッツの母は楽しげに見てにんまりする。 「そう言ってもらえると嬉しいね」  カッツもアサカの肉を大喜びで口に運んでいた。カッツの父は足を悪くして以来、家にいることが多いそうで、自然と食も細いようだ。 「食べっぷりのいいのが増えると、こっちも気分がいいさね」  カッツの母は上機嫌になって、パンを姉弟が食べたいだけ持ってきてくれた。  ふと、ユリスが机の端のギヨを見た。彼の飲んでいるものが気になったらしい。 「あれは何の酒? ペル?」 「ああ、ギヨさんはペルの酒のほうが馴染みがあるみたいでね。あんたらは酒と言えばウルカの酒だろう?」  姉弟は頷く。アルメルとユリスに限らず、この国の人間の大半にとって、酒とはウルカの果実酒のことを差していた。  アルメルがギヨに、アサカの肉が美味しい、ありがとうと礼を言う。  ギヨは、厳めしい顔のままアルメルとユリスを見て、また食事と酒に戻った。  彼は食事の間、ずっと無言だった。  食事を済ませ、借りた部屋に戻る前。廊下でカッツがアルメルの服の袖を引っ張った。 「姉ちゃんたちごめんな。ギヨのおっちゃん、いつもはあそこまで無愛想じゃないんだけどな」 「カッツが謝ることじゃないわ」  アルメルは返した。気にはなったが、カッツを追及しても仕方ない。 「ごちそうさまって伝えてくれればいいよ」  ユリスも宥める。  カッツは、アルメルとユリスが機嫌を悪くしていないのにほっとしたようだった。 「うん、分かった。ギヨのおっちゃん、すごい狩人なんだぜ。弓矢でばしっと、鳥を落とすんだ。鳥も獣も絶対外さないんだ」  少年は、にこにこしながら身振り手振りで大げさに示す。 「……狩人か」  明らかに納得していない顔で復唱したユリスを、 「ん? オレ、何か変なこと言ったか?」  カッツは不思議がった。  "狩人"に弟が引っ掛かりを覚えたのは、自分にも分からなくはないが、この場で口に出すのはあまりよくないだろう。  「何でもないわ。お母さんにも、料理おいしかったって伝えてね」  アルメルはその場を繕うようにして、カッツを部屋へ帰した。 「ギヨが狩人、ね」  不審気に呟く弟の頬を、アルメルは指でつついた。 「少なくとも今はそうなんでしょ。あんたも、考えてることを顔に出すのを抑えなさい」  今は鳥や獣を追う者として、あの長弓を使っている。そういうことだろう。  ギヨはカッツが産まれる前からこの村にいるのだったか。それならば、彼が持つ長弓をカッツが違和感なく思っていても変ではない。  アルメルとユリスも部屋に戻った。借りられたのは農家の一室だ。  普段が物置なのか部屋の中は埃っぽいが、いきなり訪れて借りた立場だから文句は言えない。屋根があるだけでも十分だ。  掛布にくるまって、アルメルは瞳を閉じる。  ……明日も天気がいいなら、帰還が楽だと思いながら。  翌朝。日が昇ると、村の人間は各々の仕事を始めた。  小川まで洗濯に出かけていく娘。くわを担いで畑に向かう男。野菜の株の選別を始める老婆たち。  今日もこの村は、穏やかでゆるりとした時間が流れてゆくのだろう。  姉弟は出立の準備を終えると、カッツの一家に泊めてくれた礼を言って、集落を発った。  昨日の小川沿いまで下りて来たとき、茂みからがさがさと木の葉と枝の擦れる音がした。  ……潜んでいるのは賊か? 獣か?  二人が剣の柄に手を伸ばした刹那、男の子が転がり出て来た。 「カッツ!?」 「へへ。ここに来ればまた会えると思って」  ぱたぱたと服の袖やズボンに付いた木の葉や泥をはたき落とし、カッツは照れくさそうに笑った。  そして二人を見上げて言う。 「なあ、姉ちゃん、兄ちゃん、剣を教えてよ。連れてってよ。オレ、麦や果物の相手よりも剣がやりたいよ」  姉弟は、剣の勝負を申し込んでくる剣客に会うのと同じように、剣を教えて欲しいという弟子入り志願者に会うことがままあった。  家でも、外出先でも。  そんなとき、二人の答は決まっていた。 「僕たちは、依頼を受けてあちこち出かけるから、構ってあげられないよ。剣を覚えたいなら、叔母さんの訓練所を紹介するからそこに通って」  ユリスが断りの定型文句を告げた。  ただ彼が断るときにしては珍しく、穏やかで、相手が傷つかぬような喋り方だった。 「授業料はないから……でも兄ちゃんたちの仕事は手伝うよ。荷物持ちとか、掃除とか……だから、連れてって」  けれどもカッツは引かない。  アルメルはやれやれと思った。弟もだろう。  食い下がられたところで、こちらも了承できない理由がある。 「リジューはのんびりしてるけど、外は違う。こうして武装するのは何故か、分かるだろ」  ユリスは自分の剣の鞘を軽く叩いて示した。  道中、追いはぎに金品目当てで襲われることもある。仕事が仕事なだけに、憎悪や怨恨から命を狙われることもある。そういうときにある程度自力で対処できないようではどうしようもない。  弟は、今度はやや語気を強めてカッツに告げた。 「素人を連れて歩いたって足手まといなだけだ」  カッツはユリスに言い返す言葉が見つからないらしい。無言で唇を震わせると、次にはアルメルに助け舟を求めるような視線を寄越した。  ……困った子だ。こちらに期待を寄せたところで、余計辛くなるのに。 「剣を覚えたいって、お父さんとお母さんは知ってるの?」  アルメルが尋ねると、カッツは首を横に振った。  そんなことだろうと思った。もしカッツが話していれば、彼の両親は怒って止めただろうからだ。 「帰りなさい。家で、畑を耕して、果物の木を世話するのも立派な仕事よ。読み書きは、村長に頼んで教えてもらうといいわ」  アルメルのにべもない言葉を聞いて、カッツの表情はなお暗くなった。   言葉では突き放すが、アルメルは胸のうちではカッツを不憫に思わないこともなかった。  彼くらいの歳の少年ならば、外の世界に憧れることもあるだろう。武器の強さに憧れることもあるだろう。けれども相応の覚悟と腕がなければ、こんな仕事は務まらない。  それにこのままこの少年を連れて行ったら、自分たちが人さらいになってしまう。 「村の外に憧れるのは構わないけど、僕らじゃカッツの願いを叶えるのは無理だよ」 「……ちぇ」  カッツは一つ息を吐き出して、その場に座り込んだ。  こちらを悔しそうに見上げてくる彼の瞳には、不満がありありと滲んでいた。 「……ギヨのおっちゃんに弓を教えてって頼んでも、駄目だって言うし、姉ちゃんと兄ちゃんに剣を教えてって頼んでも、駄目だって言う」  憧れたものに拒絶される悲しさは、幼い身にはどれほどか。カッツは泣き出す前で堪えているようだった。  ユリスは屈みこんで、カッツに目の高さを合わせた。 「ギヨの弓も訓練がいるよ。ギヨの体を見れば分かる通りね。もし訓練に耐えるつもりなら、もう一回真剣に頼んでみたらいいかもしれない。ギヨは村から出る気がなさそうだから。  まあ、ただの狩人でいいならあそこまで鍛える必要はないかもしれないけど」 「……ギヨのおっちゃん、狩人じゃないのか?」  意外だったらしい。カッツは目を見開いた。 「ギヨは僕らと同じ種類の人間だよ。推測だけど」  アルメルも弟と同感だった。ギヨと初めて会った時、勘が告げていた。  あれは自分たち姉弟と同種の人間だと。 「同じ種類?」  聞き返してきた少年に、アルメルは答えた。多分、間違ってはいない。 「ギヨは人間相手に武器を向けることを商売にしているわ」   (3)  そもそもこの国に、訓練の大変な長弓使いはあまりいない。同じ弓なら比較的扱いの易しい弩のほうが好まれる。  ウルカの酒よりペルの酒のほうが馴染みがあるのも、余所から来た証拠のようなものだ。  カッツと共に、アルメルとユリスはリジューの奥、小さな池の側に来た。  木々の陰に、長弓を携えた大男の後ろ姿を見つける。  アルメルの背を超える長さの弓に矢をつがえ、筋肉の発達した剛腕が弦を引き絞る。  狙うは池の淵に憩う鳥。  矢はひょうと宙を飛び、見事に黒羽の野鳥を射抜いた。 「……何の用だ」  長弓と獲物を手にしたギヨが、こちらにやって来た。アルメルたちが来たときにはもう、見られているのに気づいていただろう。 「カッツがギヨに頼みたいことがあるってさ」 「ほら、大事なことは自分で言うのよ」  ギヨが訝しんでいると、アルメルに背を押され、カッツが前に出る。  そして、ギヨを見上げて精一杯の声を出した。 「おっちゃん、もう一度お願いだ。オレに弓を教えて!」  大男は無言のまま、しばらく三人を見ていた。 「お前たちはわざわざカッツの付き添いで来たのか」  こちらを睨むギヨの目は、お節介め、と言外に告げていた。  昨日と変わらず、アルメルとユリスを歓迎していない風だったが、二人は全く意に介さなかった。 「僕たちは家に帰るけど、ギヨはここを家にしてるんだろ? だったらカッツの相手をしてあげてもいいと思うんだ。カッツが狩りを覚えても、村の生活で損はしないよ」 「教えたくない理由があるんなら、はっきり言ってあげたほうがカッツは納得するわよ」 「……」  ギヨは自分を真摯に見上げる少年をどう扱っていいものか、決めかねているようだった。  やがて口を開く。 「お前たち、どこから来た」  姉弟に向けて。 「ロロだよ。ここから南の、街道沿いの町」 「平民か?」  姉弟は頷いた。 「その剣はどうした」 「父さんと母さんと叔母さんから教わったんだ」  平民で両刃の長剣を扱う者は珍しい部類に入る。剣を持つとしても、もう少し短い片手剣か、片刃剣が多い。ギヨが奇妙に思ったのも別段無理はない。  またも黙考に入ったあと、ギヨは今度は何かを決心したように、その場の石にどかりと腰を下ろした。 「嘘ではなさそうだな。昨日はすまなかった。その剣を見て、嫌なものを思い出した」 「嫌なもの?」  アルメルの問いに、ギヨは一つ息を吐き出して、答えた。 「昔の上官だ。つまらん話かもしれんが、カッツも聞いてくれるか」 「もともと俺は、この国の人間じゃない。名前も今と違うのを名乗ってた。北の国じゃ、弓と言えばこいつ、酒と言えばペルなのさ」  大男は弓を示した後、自然と北を見た。  長弓。  扱う技術の習得が厄介だが、その威力と飛距離は非常に恐ろしい武器。 「もうずいぶん昔のことだが、戦争で稼げると聞いて、正規軍にくっついて海を渡って来たんだ。傭兵としてしばらくやった後、帰りたくなった。こさえた戦傷も痛んだしな」  大男の剛腕には、古い傷痕がいくつも刻まれていた。 「退団して船に乗る前だ。妙に愛想のいい男が、酒場で気前よく酒を振る舞ってくれてな。そのまま寝ちまって……気が付いたら知らない部屋に放り込まれていたんだ。頭がくらくらしたよ。似たような境遇の奴らと一緒に、武装した連中に脅されて、砦に連れて行かれて……な」 「砦? また戦ったの?」 「ああ。傭兵に逆戻りさ。その後は嫌々戦わされた。上官の扱いはひでえもんだったよ。あれに比べりゃ、前の傭兵団長は神さんか救世主だな」  大男は面白くなさそうに笑った。 「その時の上官連中が長剣を下げていたのね。嫌う理由は分かったわ」  アルメルに頷いて、大男は話を続ける。 「俺はある時、脱走を考えた。なんとか逃げおおせたよ。ここにいるのが何よりの証拠だ。逃げ出すのに必死で、郷里とは反対方向に向かってたがな」  彼の目は、リジューの村の集落の場所へ向く。その様は愛おしいものを眺めるようだった。 「――余所者の俺を、それと分かってて怪我の手当てをしてくれた上、住まわせてくれたこの村には本当に感謝してる。異国人の、それも脱走兵なんざそれだけで殺されたって文句は言えねえからな。カッツの親父さんが足を悪くしてから、その代わりとまではいかないが、手伝うことにしたんだ」 「おっちゃん……」  カッツも初めて聞く話だったのだろう。傍に寄ってきたカッツを、ギヨは撫でた。 「村の外も、いいことばかりじゃないんだな」 「そうだな。でもここはいい村だ。外とは違って、安全で、住人も優しい。そうだろう、カッツ」  ギヨは穏やかな声で、確認するかのように、同意を求めるかのようにカッツに語る。  彼はもう、帰れなくなったのだ。 「……郷里に置いてきた母親と妹には申し訳ないがな」  再び故郷の方角に首を向けて、ギヨは寂しげに呟いた。  アルメルはギヨに対して思うことはいろいろとあった。  帰って来ない家族を待つ辛さは身に染みているからだ。  けれどこの村を捨て、危険な海を渡って自国へ戻れと言う気には、ならなかった。 「ああ、そういやお前たちは手紙の配達に来たんだったな。手紙も異国までは届かんだろう。それにお前たちも、さすがに異国語の読み書きは無理だろうな。まあ、俺も母親も読み書きができねえから、それ以前の話だが……さて」  ギヨは、カッツの両肩に大きな手を置いた。 「さあカッツ。こんな男からでも、弓を覚える気はあるか」  少年は、迷いなく頷いた。 「若いの」  帰り際に、姉弟はギヨに呼び止められた。 「お前たちの親はどうしてる」 「僕たちが子供のころに仕事に出たきり、帰って来ない」 「そうか」  ギヨは短い返事をした。  武器を扱う、帰って来ない家族と聞いて、彼は心中で何を思ったか。  眉一つ動かさなかった表情からは分からない。 「親が子供のころにいなくなってしまったんじゃ、寂しい思いも悲しい思いもしただろう。だが、俺に言えたことじゃねえかもしれんが、あまり親を恨まないでやってくれんか」 「……覚えとくよ」  弟は肯定も否定もしないで、踵を返す。アルメルもそれに続いた。  後ろをちらと見ると、カッツが元気に手を振っていた。  彼はきっといい狩人になるだろう。  *  無事ロロの町に着いて、家に帰る前。姉弟は叔母の開いている訓練所に寄った。帰還の報告と、出かける前に預けておいた貴重品を受け取るのを兼ねてだ。  建物の中からは威勢のいい掛け声が聞こえてくる。  挨拶をして入ると、年若い生徒を叱っていた叔母が、顔を上げた。 「あれ、兄貴……?」 「叔母さん、違う違う。僕だから。甥っ子の」 「ああ、ごめんねユリス。あんただったか。背格好が似てるもんだから。アルメルもお帰り」 「ただいま、叔母さん」  叔母は姉弟からの預かり物を取りに、訓練所から出る。  そのすれ違いざまにアルメルは聞いた。 「あの馬鹿兄貴、どこにいるのよ……」  もう十年も帰って来ない肉親を呼ぶ、小さくとも痛ましい声を。  自分たちの家の側まで来ると、白猫のジュストが鳴いていた。  土産にアサカの干し肉をもらってきたのが、匂いで分かるのだろう。  庭に荷を下ろして、アルメルはぐいと伸びをした。  我が家に戻ってきたのだ。酒を買ってきて、弟とジュストと一緒に一杯やろう。  肴はアサカの干し肉だ。  そして酔ったまま気持ちよく寝てしまおう。それがいい。  (姉と弟と狩人・了)   ■4 姉と弟と神父 (1) 「姉さん、どうしてこの仕事を請け負ったの」 「……聞かないで。すごく後悔してるんだから」  南に向かって歩いている最中、姉弟はひそひそささやき合った。  今回の依頼は、国の南西にある港町ウォーレンまでの道中、依頼人であるクリストフ神父の用心棒をすることだった。  まあ、仕事内容は別にいい。護衛の依頼はよくある。問題は…… 「おいガキども、聞こえてるぞ。俺の悪口が」  前方を歩く神父が、にやにや口の端を歪めて意地の悪い視線を寄越した。  年齢は四十を過ぎたくらいだろうか。短い黒髪に黒瞳、黒い僧服。体格は弟より細身で、何かを挟んだ板を持ち歩いている。  僧服は着崩すこともなく整えていて、顔立ちは誠実そのもの。見た目だけならば別段批判するようなところはないのだが―― 「いい女歩いてねえかな。こう、抱き心地のよさそうな若いの」 「昔みたいに吐くまで飲んで、二日酔いでもさらに酒に浸ってたいもんだ」 「金はいいね。何でも思うがままだ。清貧なんざやってられねえ」  と、彼がべらべらべらべらべらべら喋る内容に、アルメルもユリスも頭が痛かった。  腰に下げた剣が普段より重く感じる。  ……この神父、生臭だ。  港町ウォーレンは、国の南西の外れで、国境に近い。  途中までは整備された街道に沿って歩けばよかったが、街道から離れると土のむき出しの道を進む必要がある。  今の南部は雨の乏しく、日差しの強い乾燥した時期。  汗ばむ中、ウルカやカルバロの果樹林の間の道を三人は歩いていた。 「わざわざウォーレンまで行くのは赴任先の変更なの?」 「いや」  弟のユリスが尋ねると、神父は首を振った。そして楽しそうに言う。 「恋人に会いにな」  神父の言葉を、アルメルは頭の中で反芻した。  恋人。聖職者が、恋人に、会いに。  仕事を受けたときに、着いたら画廊に行きたいとは聞いていたが、恋人は初耳だった。 「……確認するけどさ、クリストフって坊さんだよね」 「ああ。その通りだが、どうかしたのか?」  クリストフ神父は悪びれることもなく、しれっとしたものだった。  聖職者の妻帯は禁じられている。結婚しなければいいというのではなく、当然、身綺麗であれということだ。  もちろん、戒律通りに真面目に生活する聖職者ばかりでないのは、アルメルもユリスも知っている。敬われる職業ゆえの反動か、女や金がらみで聞き苦しい噂にまみれる者は少なくない。  けれど、そうだとしても、もっと隠すものじゃなかろうか。こうも開けっぴろげだと反応に困る。  アルメルとユリスの呆れかえった表情を見て、神父は笑った。 「俺が不衛生だの、乱れてるだのと言いたいらしいな。んなもん別に今に始まったことじゃねえしな。それに、実の姉の尻を追っかける変態に文句をつけられる覚えもない」  向けられた言葉の棘に、ユリスはむっとしたようだ。神父に食って掛かりそうな雰囲気なので、アルメルは相手は依頼主だとささやいて、弟の服を引っ張って止める。 「……どこがいいのかね、こんなちんちくりんで可愛げのない女の」  神父の言葉の棘が、今度はアルメルに向いた。  相手は依頼主だ。依頼主だ。金のためだ。酒代のためだ。  アルメルはそう自分に言い聞かせて、震える拳を振り上げぬよう、平静を保とうとした。 「こんなガキじゃ絵にならねえんだよな。女ってのはもっとこう、曲線の……」 「そう? 揉める胸はあるよ、姉さん」 「あんたも余計な事言わないの」  姉弟の交わす言葉が聞こえたか聞こえていないか、神父は、 「ああ、ちょうどあんな感じだ」  果樹園でカルバロの収穫をしていた農民たちの中に若い娘の姿を見つけると、板を持って近づいて行った。  重なっていた板を開いて、中から紙を出し、黒チョークで絵を描き始める。  農民の若い娘は、いきなり絵を描きだした神父に驚いて足を止めたが、神父がそのまま仕事をしていなさいと言うので、作業に戻っていった。  しかしやはり気になるらしく、ちらちらと何度も神父のほうを恥ずかしげに見ている。  アルメルとユリスは神父に近づいて、絵を覗き込んだ。  大雑把に取った輪郭から、段々と描き込みが増え、女の姿に変わっていく。   頭巾からこぼれた柔らかそうな髪、穏やかな目元、豊かに膨らんだ胸、丸みを帯びた腰、丈の長いスカート……。  短い時間で描いた絵なのに、顔も体格もちゃんとモデルになった女の特徴をとらえていた。 「上手いのね」 「当然だ」  神父が顔を上げ、アルメルのほうを見て、下品ににやりとする。  彼の顔には、どうだお前の姿とは全然違うだろう、と書いてあった。  嫌味のためにここまでしたのか。そう考えると腹が立つのを通り越して呆れてくる。  この神父の性格は全く褒められないが、しかし絵の腕は大したものだと思った。自分はあまり芸術に通じていないが、彼はその道では名の知れた画僧なのだろうか。  今描いた紙以外にも、板には絵の描かれた紙が何枚も挟まれているようだ。  何人もの農民の中から、男が一人、こちらにやって来て帽子を取った。 「神父様とお付きの方。我々はこれから昼の食事ですが、もしよろしかったら、召し上がって行かれませんか」 「ありがたい申し出です」  神父は畏まって礼を述べた。  こういうときには品行方正に振る舞うのかと、アルメルは内心いらいらするものがあったが、食事にありつけるのだから黙っておくことにした。神父の態度の変化に口を尖らせた弟は、つついて大人しくさせた。  農民の男について行くと、外での仕事のときに使っているのだろう、簡素だが大きな木製の机と椅子があった。女たちが大きな鍋で何かを作っていたようで、いい匂いがする。  皿に盛って出されたのは、鶏肉や豆と米を合わせて炊いたものだった。  以前どこかで似たような炊き込み飯を食べたことがある。その時は確か、西の国から伝わった料理だと聞いた。  スプーンですくって口に運ぶと、肉のうまみを吸った米の味が広がった。おこげがおいしい。 「カルバロの収穫も、そろそろ終わりです。今年は豊作でよかったですよ」 「あなた方の日頃の行いを、報いてくださるのでしょう」  恵みに感謝云々と、神父は言の葉だけはまっとうなことを喋っていた。  農民と神父のやりとりを横で聞いていたアルメルは、食事の間、歯が浮きそうだった。  そんな台詞をしれっと言ってのける本人は、全く敬虔ではないのだから。 「姉さん、クリストフがあんなこと言ってるよ」  弟が、誠実に生きることの尊さを説く神父を見て、小声でささやいた。 「……言わせておけばいいんじゃないかしら」  食事を終え、礼を言って旅路に戻ろうとしたとき。農民の男が心配げに前に出てきた。 「ウォーレンに行かれるのですか。それなら、少し急いだほうがよろしいかと」 「どうして?」 「最近ここらじゃ、異教徒が出るなんて話がありましてね。いや、ウォーレンに来る商人の異教徒ならいいんですが、その……異教徒の賊だそうで。護衛の方がいくら優秀でも、明るいうちに町に入ってしまったほうがいいですよ」  本質的に人がいいのだろう。男は不安もあらわな面持ちだった。 「忠告ありがとう。気を付けるわ」  けれども仕事を止めるわけにはいかない。教えてくれたことに感謝して、アルメルとユリスと神父は、カルバロの果樹園を発った。  三人は南に向かう道に戻って、再び歩き出す。 「異教徒か。西から流れて来るのかな」 「でしょうね」  午後の陽の中、アルメルは弟に相槌を打った。  予定通り進めば、暗くなる前にウォーレンに着く。特に日程を変更するような事態もなかったから、ウォーレンまで行けば、やっとこの憎たらしい破戒僧から離れられ――  ……そう思った時。  ころん。  道の傍にあった岩から、小石が一つ落ちてきた。   (2)  アルメルは小石が落ちてきたほうを見た。  道脇の岩の上に、人影が一つ。  目視で確認できない場所にもあと何人か潜んでいるだろうか。    ――噂の相手が日中からお出ましのようだ。 「西から来た人? 暗くなってから出てくるんじゃないの?」  弟が岩の上に声をかけたが、返事はなかった。  岩の上の人物は、体中を大きな暗色の布ですっぽり覆っていた。口元も布で隠していて、ぎらぎらと光る眼がこちらを見ている。  顔の大部分が隠れていてはっきりとは分からないが、体格からするに男だろう。手には曲刀が握られていた。 「私たちはウォーレンに行きたいの。通してもらえるかしら」  今度はアルメルが呼びかけた。  ……けれども返事はない。無視しているというより、言葉が通じない様子だった。 「おいおい、昼間から出てくるとは働きもんの賊だな」  神父が茶化して言う。  姉弟は、西の異教徒を見たことがないわけではない。もともと乾燥地帯出身の民族なのと、戒律の都合ゆえに肌を覆ってあまり見せない格好が、彼らの一般的な衣装なのも知っている。  だが、異教徒でも堅気ならば、旅人が通りがかった程度で曲刀の刃をちらつかせはしまい。異民族であっても同じ神を信ずるなら、神父の姿を見て武器を収めるだろう。  アルメルとユリスは自身の剣の柄に手をかけた。  彼が素直に通してくれるとは思えない。  岩上の異教徒は、剣を抜いた姉弟を見て、逡巡しているようだった。  初めから襲う目的であったのか、それとも姿に気づかれたので隠れていられなくなったのか。それはこちらの知るところではないが――  異教徒はふいと後ろを向き、三人には意味の分からない言葉を叫んだ。  それが合図だった。  道の脇の石の陰から、同じような暗色の布で全身を覆った人影がいくつも湧いて出る。  体中を布で覆った装束の中、外気にさらしている目の周りや手の肌は浅黒く、異民族であると知れた。  岩上から下りてきた男と合わせて、全部で六人。  と、アルメルの頭が判断するのとほぼ同時に、異教徒たちは一斉に曲刀を振り上げた。    突っ切ってきた異教徒の曲刀の刃をかわし、アルメルは剣の柄頭で相手の頭を殴った。体勢を崩した異教徒の横から、また別の異教徒が斬りかかってくる。  曲刀の刃を剣で受け、僅かにずらして突きを入れるが、服と皮膚を切っただけのようだ。素早く引き抜くと、アルメルは異教徒たちと間合いを取り直した。  こちらから繰り出した斬撃は受け止められた。力で押そうとする異教徒を、剣をずらしてかわす。  少しずつ道の端のほうに動きながら、アルメルは唇を噛んだ。  この人数差は、どうにも分が悪い。  数を、減らせないか。  他方で、ユリスが神父を庇って剣を振っていた。  曲刀の斬撃を剣で受け、押しのけた刹那、すぐさま別の異教徒から斬りかかられるのを防ぐ。  しかしやはり、数の差が苦しいようだ。自分だけならまだしも、守らねばならない相手を抱えているからなおさら行動しづらい。  救いは、相手がただの賊で、正式に剣の扱いを習っている風でないことか。  アルメルは自分と対峙していた異教徒の隙をついて脇から抜け出ると、ユリスの相手――曲刀で長剣を抑え込もうとしている――の右腕に斬りかかった。  悲鳴を上げて、異教徒は曲刀を落とす。  ざっくり斬れた右腕を左腕が抑える前に、ユリスの長剣が異教徒の喉を突いていた。  剣が引き抜かれると、どさり、と異教徒の体が一つ、重たげに路上に倒れて路上に血の黒い染みを作る。  倒れた異教徒は、何かを掴もうと左手を動かしたが、そのうち力尽きて動かなくなった。 「!」 「……、…………!」  仲間が「減った」ことに動揺した異教徒は、震えながら後ずさりし、アルメルたちには聞き取れぬ何事かを叫んだ。  生き残った面々が互いの顔を見る。そして頷くと、彼らは道から外れて一目散に西の荒地へ走っていった。  異教徒は、戦いを続けたところで得るものが少ないと判断したのだろう。  まだ近くに隠れているかもしれないので警戒は怠れないが、当面の危機は去ったようだ。  姉弟は剣を拭いて鞘に納めると、安堵の息を漏らした。 「連中が引いてくれて助かった」 「でも仲間の報復に来るかもしれないから、安心はできないわ」 「絵が無事で何よりだ」  ……神父が、自分たち姉弟をねぎらうより、板に挟んでいる絵のことを気にしていた。  ユリスはそんな彼を冷ややかに見た。 「クリストフ、僕らはあの連中に」 「やめなさい」  アルメルが、不満で苛立ったユリスを制止した。  雇い主とはいえ、神父はあんまりな態度だ。弟も腹に据えかねたのだろうが、怒ったところで自分たちにも益がない。  内心は、アルメルは弟と同じ考えだった。そんなものよりもっと気にすることがあるのにと思う。  生きているのだから、絵などまた描けばよいのにと。けれど、 「……俺はこいつを失くすわけにはいかねえんだ」  板を抱え、物寂しげに俯いた神父の姿に、なぜか責める気がしなくなった。  画家というのは、一枚の絵にどれほどの情念を込めるものなのだろうか。 「ガキども。ぼさっとしてないで運べ」  しかしその憂いも一時のこと。神父は姉弟に尊大な声をぶつけてきた。 「そいつを道の脇に運ぶんだ」  彼の示す先には、姉弟によって命を落とした異教徒の死体があった。  墓を掘ってやるのがいいのだが、あまり柔らかくない土壌だった。  路上の血痕と死体に土を被せるくらいはできるが、穴を深く掘る道具や時間はない。  アルメルとユリスで異教徒の死体を道の脇まで運んだ後。  それまで二人を手伝いもしなかった神父が、「ここからは俺の務めだ」と死者に祈り始めた。  ……異教徒に、だ。  姉弟は神父の行為に驚いた。けれども当の神父は平然としたもので、 「異教徒の神も俺らの神も元は同じだ。気にすんな。お前らが昼に食ってた炊き込み飯の米、あれも異教徒どもが西から持ち込んだもんだしな」  などと、さらっと言い放つ。 「クリストフって、異端って言われない?」 「俺のやることなんざ、周りはすっかり呆れてるからな。今更小せえことの一つ二つで文句つける奴はいない。俺は絵さえ描いてりゃいいんだとさ」  神父は、自分の処遇を鼻で笑った。  彼の無茶で粗暴に思える言動は、絵の素質のために大目に見られているのだろう。 「ひでえ話だろ。俺は死人に祈るのは嫌いじゃないのにな。異教のおっさん、急ぐんで簡単に終わらせてすまんな。  ……さあお前ら、時間取らせたな」  土をかぶせてまた南に向けて歩き出す前、アルメルは神父に告げた。 「あんたのこと、最低だと思ってたけど、ちょっと考えを改めるわ」 「別に改めなくていいぞ。お前の弟と違って、俺はちんちくりんは好みじゃねえから」  神父は面倒くさそうに、ひらひらと手を振った。  夜の闇に星が輝き始めたころ、ようやくウォーレンの町明かりが見えた。  潮の匂いのする中、町の門をくぐる。  予定よりも少し到着が遅れたが、異教徒の後に何かに襲われることはなく来れたのは幸運だ。 「ここでお別れね、クリストフ。長旅お疲れ様」  門をくぐって少し歩き、食堂や宿の並ぶ大通りまで来て、やっと仕事の終わりを迎えた。  通る人々の数と、明りの漏れる店や家々が、安心を与えてくれる。  今回は少し長い旅だった。  報酬を受け取ったら、宿を取って、一杯やろう。飲酒の禁じられた異教徒の訪問が増えていると聞く港町ではあるが、どの店も酒を出さないことはないだろう。  さあ報酬を頂戴しようと、アルメルが口を開きかけたとき。 「アルメル、ユリス、ちょっと俺と一緒に来い」 「何よ」  クリストフ神父は別の話を切り出した。  憎たらしい坊主め、最後に仕事ぶりに苦情でもつける気か。そう気構えたが、意外にも彼はこちらに好意的でいるようだ。  神父は板を抱えたまま、口元を緩めた。 「ここまで付き合わせたんだ。俺の恋人に会わせてやるよ」   (3)  神父に連れていかれた先は、石造りの大きな店だった。看板には画廊とある。  画廊は護衛を請け負った時に、神父が行きたいと言っていた場所だ。  恋人とは、もしやここの娘さんなのだろうか。  しかし閉店後の店の扉は当然開いていない。  店の裏の屋敷のほうに回ると、太り気味の中年の男が庭にいた。店じまいの後で、家に入ろうとしたところらしい。 「おお、あなたがクリストフ神父ですか。お手紙を拝見して、お待ちしておりましたよ。しかし長旅お疲れでしょう。明日、夜が明けてからにいたしませんか」 「いや、店を閉めてるなら客もいないから、気楽でいい。今開けてくれ」  画廊の主らしい中年の男は、しぶしぶといった様子で鍵を持って来た。  半ばごり押しの形だが、店の扉を開けてもらって、三人は画廊の中に入った。  靴音の響く石床を、アルメルとユリスとクリストフ、それに画廊の主が無言で歩く。壁には絵が飾られているが、関心を払って眺めていられる状況ではない。  アルメルが弟の顔を覗くと、腹が減ったと書いてあった。  三人の前を案内で歩いていた画廊の主が、こちらです、と小部屋を示した。戸を開け、部屋のろうそくに火をともす。  クリストフ神父が画廊の主に視線を遣った。出て行けと暗に言われたのを理解し、画廊の主は肩をすくめて廊下に戻る。  薄暗い小部屋の中にはいくつもの風景画があった。神父はそれらには関心を示さず、部屋の隅の台に置かれていた、布の掛けられた板に近づいて、布を取った。  布の下が目的のものだったのだろう、神父は大きく息を吐く。 「……何年ぶりだろうな、スケッチと絵が揃うのは」  普段横柄で不遜な彼が、そう静かに呟いた後姿は、痛ましく震えて見えた。  アルメルとユリスは、神父の後ろから板を覗き込んだ。  石膏を地塗りした板に描かれていたのは裸婦の絵だ。画風には見覚えがある。  ゆるく波打った長い金髪を垂らす美しい女が、柱に寄りかかって笑みを浮かべている。  優しいが、どこか悲しくも見える笑み。 「これ、誰?」  ユリスが率直に尋ねた。 「俺の恋人だ。言っただろ、恋人に会わせてやるって」  神父も率直に答えた。 「いい女だろ? ……俺が爺さんになろうと、死のうと、年も取らず、ずっと若いまんまのな」  彼はまるで生きた人間を紹介するかのように絵を示す。  口ぶりは誇らしげだが、しかし少なからぬ自嘲が含まれていた。 「これは、あなたが描いた絵よね?」 「ああ」  アルメルの問いを神父は肯定した。そうだろう。この絵は昼に見た、彼のスケッチと画風が重なる。  アルメルは、次に浮かんだ疑問を尋ねていいものか戸惑った。  けれども、神父がこの画廊に案内してくれたのは、つまり絵を見て思ったことを聞けという意味のような気がするのだ。  寸刻迷ったが、再び口を開いた。 「……この絵のモデルは誰? 今どこで何をしてるの?」  その質問を待っていた。神父の目はそう言っていた。 「もう死んだよ」 「俺が若い頃、ウォーレンから東の町の礼拝所にいたんだが、ある商家の娘が熱心に通って来たんだ。絵のモデルはその娘だ」 「好きだったの?」  弟が直接に問う。 「ああ。今でこそ落ち着いた俺も、昔はやんちゃだったからな。喧嘩も娼館通いもやったが、その俺が大人しくなるくらいに綺麗だったな。そのうちこっそり二人で会うようになって、スケッチのモデルにもなってもらった」  神父はばらっと、床の上に板を開く。  彼が何枚もの紙の下から出したのは、古びた紙に描かれた裸の女のスケッチだった。  スケッチと、この絵の女が同一人物なのは、身体的な特徴が一致していることから分かる。 「本気で惚れてたよ。だが俺はガキのころから僧籍で、結婚は無理だ。還俗が認められるのは貴族の跡継ぎくらいのもんだろ? 実家が平民じゃどうしようもない。  そのうち逢引きがばれて、騒ぎになった。相手の家がそこそこでかい商家だったしな」 「ガキども、ヴァージュラックのカナー聖堂を知ってるか?」  話を振られて、姉弟は頷いた。  ヴァージュラックは街道の西の端にある大きな都市で、ロロからは西、ウォーレンからは北に位置する。カナー聖堂はヴァージュラックにある聖堂のうちの一つだ。 「行ったことはあるか? ないならいい。あそこの壁……と言っても、そんなに目立つところじゃないんだが、壁画を描けと頼まれた。不祥事は黙っててやるかわりに絵を描けってことだな。俺は強引に連れていかれて、完成まで外に出してはもらえなかった。依頼された絵を描く一方で、寝所でスケッチを元にしてこいつを描いてたんだ。俺はこの絵のおかげで気力を保ってた」  神父は、絵とスケッチを交互に見た後、声を落として言った。 「……相手の女が死んだと知ったのは、壁画が完成した後だった」  死んだと伝えたらこの画僧は描く気を失くすからだろう。理解はできるが、残酷な話だ。  アルメルは聞かずにいられなかった。 「商家の娘さんは、どうして亡くなったの?」 「俺と引き離された後に赤ん坊を産んだが、赤ん坊はすぐに死んじまった。それが元で心を病んで……衰弱して死んだと聞いた」  神父は目を伏せた。  愛した女と子を亡くし、残されたのは絵とスケッチ。  神父が老人になろうと、死のうと、年も取らず、ずっと若いままの姿で微笑む女。 「この絵はいつの間にか勝手に人から人へ転々として、所在が分かったときには値段がついていた。手元に置いておきたくても、買い戻す金が俺にはない。貧乏なんてくそくらえだろ? せめて売られる前にもう一度見たいと思って、画商に連絡を入れたんだ」  ……その後が、今回の自分たち姉弟との道中なのだろう。  手元に残ったスケッチを抱えて、恋人に会いに行く旅。  再会を経て、彼は気持ちに納得がいっただろうか。  差し出された報酬を受け取るとき、アルメルはじっと、神父の顔を見た。 「何だ? この期に及んで払う金をちびったりしねえぞ、俺は」 「そうじゃないわ。どうしてこの絵を私たちに見せたの?」  どうして、絵を見せてこんな話をしたのだ。  詰め寄るようなアルメルの緑の瞳を、神父の黒瞳が全く臆さずに見返した。 「それを描いたのがちょうどお前らくらいの歳だったから、昔語りしたくなっただけだ。禁じられた恋の結末が、ろくなもんじゃなかった男が、な」  神父はくしゃりと前髪を掻き上げた。 「お前らも茨の道だろ。足掻いて生きろ。さあ、俺からの話はこれで終わりだ」  そしてこちらの同意も得ずに話を打ち切ると、神父はあっち行けとばかりに手を振る。 「帰れ」 「クリストフ……」  ユリスが呼びかけるが、 「いいから気を遣えよ。俺はせっかくの恋人との逢瀬なんだぞ。帰れ」  神父はわざとらしく渋い顔を作った。  全く、最後まで憎たらしいことだ。アルメルはユリスの服を引っ張って、外に出ようと促した。    *  受け取った報酬の一部を酒に換えて、宿の部屋で二人で飲み明かした翌朝。  潮騒で、珍しく朝早くに目が覚めたので、姉弟は朝食前に港を歩いていた。  店はまだどこも開いていないが、水夫たちはすでに働いていた。朝のうすぼんやりとした明るさの中、港に浮かぶ商船に、大きな木箱の荷を運んでいる。 「南の海はいいわね」  海鳥の鳴き声があちこちから聞こえる中、アルメルは微笑んだ。 「そう? 姉さん、前に都に行ったとき、海は気分が落ち込むって」 「北の海は色が重たいもの。南の海は明るくていいわ。海の近くで、猫に囲まれて過ごしたら楽しそうね」  潮の匂いが衣服や髪に染み付くのは少し気になるが、南の陽気な光の下なら、そんなことは忘れて楽しく過ごせそうな気がする。 「ジュストが聞いたら嫉妬するよ。あの猫、魚よこせってうるさいから」  ユリスが笑って言う。  その通りだ。白猫のジュストも、二人の叔母も、ロロで待っている。  朝食を終えたら、宿の主人に依頼の斡旋所の場所を教えてもらおう。  ウォーレンまでは遠出だったから、ロロの町へ帰るついでに請け負える仕事があるといい。  (姉と弟と神父・了)   ■5 弟と姉の少年少女 (1)  ロロの町に、昨夜からずっと降り続いている夏の雨は、未だにやまない。  おかげで、ただでさえ暑いのに湿気で蒸し蒸しする。  アルメル姉さんは昼を過ぎても起きてこない。暑さでぐったり伸びている猫のように、家のベッドの上で無造作に寝転がっている。  雨がやんだら買い物にでもと思っていたが、降り続いていては足が進まない。川に釣りにも行けない。姉さんと稽古場で剣の訓練でもいいけれど、起こすのは気の毒なので、退屈を紛らわすなら一人で素振りしかなさそうだ。    自分の剣と稽古場の鍵を持って、玄関に向かったとき。柱の傷痕が目に入った。   両親がいなくなった後に僕がつけたものだ。  僕も姉さんも夏生まれで、毎年この時期に一つ歳を取る。  同時に、毎年とても重苦しくなる。  両親が帰って来なくなった時期でもあるからだ。  柱の傷を指で撫でて、僕は昔を思い出す。  ……あれからもう、十年になるか。  *  ラウラス家は剣術でいくらか知られていたけど、近所付き合いには乏しい。  交際があるのは町中に訓練所を持つ叔母夫婦と、剣を覚えに来た弟子たち、仕事の斡旋所の受付人ぐらいだった。  住所が町の外れなので、うちにわざわざ近づく人は少なかった。それに、剣に秀で、他人に教えるのはまあいいとして、たまに剣をぶら下げて外に出かけて行くのがあまり好かれていない。常として武器を持つからには、金さえもらえれば人殺しの仕事も喜んで受けるのだろう……そう囁かれる家と仲よくしたがる者は稀だから、これは当然の成り行きだった。  子供時代の僕も、近所の少年たちと遊ぶことはあまりなかったが、でも気にしていなかった。  姉さんや父さんや母さん、それに弟子の人たちと過ごせればよかったからだ。  姉さんは強引で無茶なことをするけれど、誰よりも僕の味方をしてくれる。  それがとても頼もしかった。  姉さんは子供のころからずっと気が強くて、緑の瞳はいつも意志の強そうな輝きに満ちていた。少年のような服装も今と同じ。違うのは、昔は僕よりも背が高かったことくらいか。  ロロの町の庶民居住地で、夕方、柄の悪い少年たちにいきなり捕まって、金を奪われたことがあった。  剣術の家の息子だって聞いたけど大したことねえなと、家を馬鹿にされて殴られた。  体中痛くて悔しくて、家に帰るなり剣の練習用の棒切れを持ち出した。親には「子供同士のけんかで剣術を使うな」とさんざん言われていたにも関わらずだ。  泥だらけのまま仕返しに行こうとしたとき、姉さんが家から出てきた。 「どこに行くの」 「……」 「答えなさいよユリス。言えないの」  眉を吊り上げて詰問してきたので、黙りとおせず僕は白状した。  姉さんは厳しい顔をすると、僕の体の泥を水で落とし、腕につけられたすり傷や、ズボンの下の青あざを確認した。  そのあと家の中に飛び込むと、両親相手に何かを叫んでいた。しばらくしてまた外に出てきたときには、彼女も手に棒切れを持っていた。  姉の考えていることが分かって、僕は驚いた。一緒に仕返しに行くつもりなのだ。 「父さんと母さんは許してくれたの?」 「そんなわけないでしょ。行くわよ。夜になる前に終わらせるわ」  いじめっ子……と言うんだろうか。庶民の雑多な居住地で、少年たちが何人も集団になっていた。そのうちの何人かは成人近く、体格も大人とあまり変わらなかった。  姉さんは僕に案内をさせ、彼らを見つけて裏路地で呼び止めると、棒切れで殴りかかった。  それを合図に、喧嘩になった。  こちらは棒切れ持ちとはいえ、二人。相手は六人か七人はいたと思うけど、僕と姉さんの二人で、その人数を日が落ちるより前に降参させた。  ……その日の夕飯は姉弟二人揃ってお預けをくらった。  どんな理由であれ「子供同士のけんかで剣術を使うな」という言いつけを破ったからだ。  二人で寝床に潜ったけど、空腹で寝付けなくて、腹が鳴る音がするたび笑った。  こさえた利益も損も姉弟二人で分け合う。あの頃から既にそうだった。  今でも、報酬の取り分で姉さんと揉めたことはない。  父さんと母さんは大抵は優しかったけど、例外的に剣の扱いは厳しかった。  文字の読み書きよりもずっと口やかましく注意された。  僕も姉さんも、稽古場でよく泣いた。通いの弟子たちが、これではうるさくて練習にならないと、おろおろしたほどに。  僕は自分の容姿は平凡で、取り立ててどうというものでもないと思っていたけれど、それでも自分の体の中で、姉さんとお揃いの黒髪と緑の瞳は気に入っていた。  どっちも父親譲りだけど、父さんと同じなことより、姉さんと同じなのが嬉しかった。  いつだったか、父さんとおじさん――叔母さんの旦那さんだ――がうちで喋っていたときに、気が早いことに僕の嫁さんをどうするかという話題になった。話を聞いていた僕が、それなら姉さんがいいと言ったら、前々から僕を扱いあぐねていた父さんは困り顔をし、おじさんにはぎょっとされた記憶がある。  二人とも、「どんなに好きでも姉と弟では無理だよ」と苦笑いして僕を諭そうとした。  けれど何がそんなにいけないのか、当時の僕は全く理解していなかった。  法で認められていないのだと知ったのはかなり後のことだ。  たまに思うことがある。  ……もし、父さんと母さんが今も無事にこの家にいたら、僕も姉さんも、今頃は誰かと結婚させられていたんじゃないだろうか、と。  時々、父さんと母さんが、僕たちを叔母さんの家に預けて仕事に出かけることがあった。  そんなときはうちで教えていた弟子たちにも、代わりに叔母さんの訓練所に通ってもらっていた。  ある夏の朝、出立の準備を終えた両親を、僕たちは叔母さんの家の玄関で見送った。 「すまないな、ニネット」 「いいわよ、兄貴の子供なら。うちの子と遊んでくれるし」  ニネットというのは叔母さんの名前だ。叔母さんは気にしないで、と父さんに微笑みかけた。 「アルメルもユリスも、叔母さんに失礼のないようにね。この人ったら昔から、ニネットさんに頼りすぎてるから」  母さんの言葉を聞いて、父さんは複雑そうに嘆息した。 「おい、それじゃ俺が妹に依存してるみたいじゃないか」 「あら、何か違って? 苦労が絶えなかったって聞いたわよ」  母さんが笑って言った。聞いていた叔母さんも苦笑する。 「あなたといいユリスといい、うちの男連中ときたら……それじゃ、姉弟仲よくしなさいね」 「アルメル、ユリス、行ってくるよ」 「いってらっしゃい」 「早く帰ってきてね」  剣を下げ、旅の荷を背負い、両親は歩いて行く。  それが僕たちが両親を見た最後だった。 「……ねえユリス。父さんと母さんはいつ帰ってくるのかしら」  日に日に、姉さんはそればかりを言うようになった。  いつもなら、両親は帰還予定の日から大きく遅れるようなことはない。  たまたま遅れているだけだ、お前たちの誕生日までには戻ってくるさと、叔母さんとおじさんは僕たちを安心させるように言った。  けれど、姉さんの誕生日にも、僕の誕生日にも、両親は帰っては来なかった。  その次の日も、両親は帰って来なかった。  その次の日も、帰って来なかった。  その次の日も。  その次も。  その次も。   (2)  さすがに予定から一月以上経っても帰還しないとなると、叔母さんも落ち着きがなくなった。  叔母さんは依頼主をあたって、どの道を通って行ったか見当をつけた。そして知り合いの剣士や数人の弟子と一緒に捜索に出た。  けれども結果は得られなかった。道沿いの集落で聞いて回っても、消息はつかめなかったそうだ。  目的地は山間部で、途中の細い道は切り立った崖の側だ。そこから落ちたのではないかという話になった。  当然ただの憶測だ。  死体はない。  捜索から帰還した後。叔母さんは僕たちを預かる期間を、両親が帰ってきたときか、僕たちが成人したときまでだと告げた。  帰って来なければ――おそらくはそうなるだろうが、という含みで――成人まで面倒を見てやるということだ。  他に頼れるあてもない。姉さんと僕は、そのまま叔母さんの家に厄介になった。両親の弟子も、習い続ける意思がある人は叔母さんの訓練所に通うことになった。  父さんと母さんの代わりに、叔母さんが剣の師になった。読み書きはおじさんも教えてくれた。  父さんも母さんも剣の稽古はきつかったけど、叔母さんも似たようなものだった。甲高い叱り声が耳に残る分、叔母さんのほうが苦手だったかもしれない。  叔母さんが厳しかったのは、僕たちの親のように帰って来なくなっては困るからだろう。  ……僕たちに必死に教えても、月謝になりもしないのにだ。厚意には本当に感謝している。  日が経つにつれ、両親のことは、徐々に話に上らなくなった。  いつまでも、悲しみにふけってはいられない。叔母さんにもおじさんにも生活がある。生活の糧を得なければ、自分たちが生きていかれない。  そうして日々の生活にかまけていると、辛いこと、苦しいことはそのうち、紛れて薄らいでいく。  秋になり、暑さが落ち着いてきたある日。姉さんが叔母さんの寝所から、実家の鍵をこっそり持ち出すのを見た。  家に戻って何をする気だろう。僕は後をつけた。  姉さんを追うと、予想通りロロの町の外れの実家に着いた。家の周りは雑草が伸び放題だった。  鍵を開けて中に入った姉の後から、僕も入った。  人気のなくなった屋内は、寂しい雰囲気に満ちていた。貴重品以外の道具はそのままで、あまり片付いていないのが却って物悲しい。  姉さんは玄関できょろきょろと周りを見回し、ばたばたと台所や寝室に駆けて行った。  このときの姉さんが家で何をしたかったのかは、今でもよく分からない。単に家が恋しかったのか、父母の幻を追っていたのか。  彼女は走り回った後はわりと早くに、玄関に戻ってきた。 「……ユリスも来たの?」  玄関で立ち尽くす僕の姿を見て、姉さんは言った。僕は頷いた。ついてきたことを怒るかと思ったが、彼女は、その場で力が抜けたようにずるずるとしゃがみ込んでしまった。 「……ねえ、どうして父さんも母さんも帰って来ないの?」  姉さんの声は震えていた。 「父さんも母さんも、すごく強い剣士でしょ。誰かにやられるはずないわ」 「崖から落ちた? 父さんたちが? 仕事に行く前には、念入りに準備する用心深い人たちなのに」 「死体もないのに、死んだみたいにされるなんて!」  姉さんは、最後には叫んでいた。  真っ当で健康な親なら、小さな子を残したまま帰って来ないことなんて、まずない。両親が帰って来ないことが何を意味するか――それは子供心にも理解できた。  けれども、理解はできても、納得はいかない。  父さんと母さんと過ごしたこの家に戻ってきたからだろうか。姉さんは声と一緒に、胸の内にずっと抱えていたものが一気に噴き出したようだった。  ぼろぼろと涙をこぼし、いつもならば強い意志をうかがわせる緑の瞳は、どんよりと曇っていた。  僕は姉さんに近づいて、自分もしゃがむと、姉さんを抱きしめた。  震えて泣いている姉に対して、他に出来ることが思いつかなかった。 「……ごめんね。ユリスだって、悲しいのにね」  腕の中の姉さんはしゃくりあげた。  僕まで涙がこぼれていた。泣くもんかと思っても、無駄だった。  どうして帰って来ないんだよ。父さん、母さん。  僕も、姉さんも、ずっと待ってるよ。  寂しいよ。    その日は結局、二人でわんわん大泣きした。  泣き疲れたときには夕方になっていた。いい加減帰らないと叔母さんから大目玉だ。 「姉さん」  僕は、泣き止んだ後の腫れぼったい顔をした姉を呼んだ。 「父さんや母さんがいなくても、僕がいるよ」  多分、僕も姉さんと同じように、腫れぼったいひどい顔をしていただろう。でも、なりふり構っていられる状況じゃない。  僕は姉さんの手を取って、ぎゅっと握った。 「一緒に、生きよう」  姉さんは頷いて、同じようにぎゅっと、僕の手を握り返してきた。  僕は家の奥から、長剣を出してきた。父さんが隠していたのを覚えていたのだ。  鞘から抜くと、命を奪うもの特有の威圧感があった。いつでも仕事に挑めるという、鋭い輝きが目に飛び込む。 「ここの柱に、印をつけとこう」 「何のために?」 「今日を忘れないために」  子供の腕には重い長剣を持ち上げて、僕は柱に一つ、傷をつけた。  自分の中の誓い。  姉さんと、一緒に生きていくんだ。    叔母さんは僕たちを預かる期間を、両親が帰ってきたときか、僕たちが成人したときまでだと言っていた。その言葉通り、成人するまでは叔母さんの家に置いてもらえた。  成人した後は、僕たちはこの家に戻って、自分たちで生活を始めた。  僕たちに残されたのは剣と剣技。  剣を振って生きるのがうちに生まれた者の宿命。  食い扶持は動いて、戦って、稼ぐ。  もし力及ばないことがあったなら、その時は共に、覚悟を決めよう。  それが僕たちの生き方だ。  * (3) 「……ユリス?」  柱の前で昔を思い出していた僕を、姉さんの声が現在に呼び戻した。  寝床から起きてきたばかりのようだ。服は着ていない。 「姉さん、服……そりゃこの雨じゃ、お客も来ないだろうけどさ」  僕の言葉など気にしていない様子で、素っ裸のまま、姉はぐいと伸びをした。  肩ほどの長さの黒髪は揺れ、意志の強そうな緑の瞳は輝いていた。日頃から動き回るゆえに、体は引き締まって脂肪が薄く、猫科の肉食獣のようにしなやかだ。尻も胸もさほど大きくないけれど、これくらいがちょうど僕の好みなので問題はない。  体のあちこちに傷痕が残っているが、僕はこれを醜いとは思わない。僕を庇ってできた傷もあるのだから、醜いと思うほうが恥だ。 「どうしたの?」 「ちょっと、抱きしめたくなった」  僕は姉さんを抱き寄せた。今、彼女の頭は僕の胸くらいだ。  姉さんはあまり身長が伸びなかった。僕が姉さんの身長を追い越した時は、彼女はしばらく不機嫌だったのを覚えている。年長者の矜持に障ったのかもしれない。  女の肌の匂いと、自分の服越しに伝わる柔らかい感触が心地いい。  姉さんが小声で、すけべ、と呟いたが、聞こえなかったふりをした。  僕と一緒に戦ってくれる。僕と一緒に酔っぱらってくれる。僕と一緒に親のことで泣いてくれる。  この腕の中の女を妻に出来たらよかったのに。    雨はやまない。  姉さんは一度部屋に戻って、服を着てきた。いつものように、チュニックにズボン。大きさが違うだけで、僕の身に着けているものとあまり変わらない。  女なのに可愛げがない、色気がないなどと言う奴もいたが、長いスカートよりも脚の線がはっきり出るズボン姿のほうが、よほど扇情的だと僕は思う。  もっとも、姉さんが男のような格好をするのは、僕の好みに迎合しているのではなく、仕事の内容的に動きやすい服装が求められるからなのだが。  食卓について、僕は買い置きしてあった酒を、二つのカップに注いだ。  向かいに座った姉さんが、ありがと、と言ってカップの酒を口に含む。  自分も酒を口に流し込んだとき、姉さんが起きたばかりで何も食べていないのを思い出した。 「ごめん、残ってたパンは僕が朝食べた。雨がやんだら買い物に行こうと思ってた」 「別にいいわよ、これがあれば」  と、姉さんは酒のカップを揺らして言うが、彼女に食べさせないのも悪いので、僕は台所内を確認した。確かに、食べ物がない。肉も魚も、野菜もパンも果物も何もない。  ……酒だけはあるのが僕たちらしい。 「今日はこのまま酔って寝ちゃおうかしら」 「いや、何か食べに行こうよ。出かけるのが嫌なら買ってくるよ」 「惣菜を買っても、帰りに雨に濡れちゃうんじゃ勿体ないわ」  飲みながらしばらく姉弟で話し合った結果、雨具を被って食堂まで行くことになった。  僕たちの生活なんて不安定なものだ。  仕事の依頼はどんなときにもあるわけじゃない。斡旋所に依頼がないか聞きに行って、肩透かしをくらって帰ってくるのはしょっちゅうだ。  貧乏はいつものこと。食べられるものがあるだけまし。場合によっては安全な水さえないまま目的地までの道を強行することもある。  治安のよくない所だと、仕事上必要があって通りかかるだけでも、追いはぎだの、姉さんに悪いことをしようとする奴だのに出くわして、荒事になるのも珍しくない。時には余計な殺生をする羽目になる。  傷は増える一方だ。医者に持って行った治療費で、報酬が消えたこともある。  それでも、廃業しようとは思わない。ラウラスの家業は綺麗でも楽でもないけれど、親から受け継いだものだという自負があったからだ。  叔母さんのように、誰かに教えることで生活の糧を稼ぐ道もあるが、今のところは自分たちの足で仕事を取るほうが性に合っている。年齢で「教える立場としては若すぎる」と侮られるのも癪だった。  年を取ったらあの生活もいいかなと、漠然と考えてはいるけれど。 「ユリス、行くなら早く行きましょう。雨具は持って来たわ」  玄関のほうから、姉さんが呼ぶ声がする。 「分かった」  僕は返事をして、もう一度玄関に向かった。  柱の傷は今でも残っている。 「一緒に、生きよう」  子供のときの、あの誓いのまま。  (弟と姉の少年少女・了)   ■6 姉と弟と狂人 (1) 「いててててて!」 「そう喚かないでください。大の男がみっともない。お姉さんが呆れてますよ」  ヴァージュラックで立ち寄った診療所の外科医が、醒めた目で患者――弟のユリスを見た。  傍で弟の泣き言を聞かされるアルメルも、あまりいい心地ではない。  処置台に横になっている弟の顔には、無茶を言うなと書いてあった。  依頼の途中で襲撃を受け、負った怪我を診てもらいに、アルメルとユリスはこの診療所に来た。  ユリスが左腕をざっくりやられたので、縫ってもらっていたのだ。 「もっと、痛くないやり方はないの?」 「痛みを紛らわせる植物というのがありましてね。汁を加工して吸えば、手術の間も患者は落ち着いていられるでしょうが、生憎と御禁制の麻薬です」  外科医が、道具を置いて手を洗いながら涼しい顔で喋る。 「それでも体の傷は治りが早いからいい」  包帯を巻いている途中、外科医は、待合用の椅子に座っている女の子のほうに一瞬だけ目を遣った。 「体の傷は治っても、心というのは、なかなか……ね」  焦点の定まらない目で、ぼんやりと宙を見ている女の子に。  西方都市ヴァージュラック。  国の東西を繋ぐ街道の西端にあるこの都市には、ドヌーヴ家という商家がある。交易で財を成した豪商だ。  今回の依頼は、この豪商の家の女の子を、西方都市ヴァージュラックの屋敷まで無事連れて行くことだった。  女の子の年は十代半ばほど、ちょうど成人前くらいだ。長い金髪に青い瞳、身に着けた服は上等で、外見はお人形のように可愛らしい。  ドヌーヴ家の所有品で、乗合馬車とは明らかに格の違う拵えの馬車に、彼女と一緒に乗って来たのだが―― 「油断した。街中で襲ってくるとはね」 「見られてる気配はあったけど、市街地に入ってしまえば武器は出さないと思ってたわ」  アルメルは舌打ちをした。護衛対象は無事だったが、この失態は痛い。  暴漢の狙いは、おそらくはこの女の子だ。単なる金目の物狙いではなく、命を狙っていた様子なのが余計不安を煽る。  念のため、御者と女の子は診療所の中まで連れてきていた。 「穏やかじゃないですね。あちらさんがどこのお嬢さんかは存じませんが、お大事に」  外科医は、よく言えば患者に踏み入らない、悪く言えば無関心な態度だった。  こちらとしてはそれでよかったので、彼に治療費を渡し、三人は診療所を出た。 「ごめん、姉さん。僕がしくじったせいで」 「今更言っても仕方ないわ」  治療費はあの気の弱そうな依頼人に請求してやればいい。問題は弟の腕だ。  利き腕でなかったのが幸いとはいえ、しばらくは上手く動かない。 「……どう、したの?」  馬車の前で、女の子がぼそぼそと喋る。 「ソフィは気にしなくていいよ。大丈夫」 「お嬢様は何の心配も……」  ユリスと御者が声をかけた。ソフィというのがこの女の子の名前だ。 「お兄様、どこですか? ソフィは、ここに」 「お兄さんは、お父さんと仕事があるって」 「お兄様、お父様に……? いや、いや、っく、うぅ」  何が彼女の気に障ったのか。ソフィは急に涙をこぼし、ぐすぐすと泣き始めた。  姉弟はまたかと思った。  ソフィが泣き始めたので、気まずくなったのだろう。ユリスがアルメルのほうを向いた。  しかしアルメルにも手に余る。どうあやせばいいのだろう。そもそも、弟は普通の人が泣くようなことは言っていない。 「ソフィ、何かユリスに嫌な事を言われたかしら?」 「落ち着いてくださいお嬢様、旦那様も坊ちゃまも何事もありませんよ」  御者が宥めるのに必死だった。  たいていの場合は心ここにあらずで、何かの拍子にいきなり泣き出す女の子とは。  日常としてソフィの世話をする者は大変だろう。  *  話は、ロロで依頼を受けたときにさかのぼる。  今回の仕事を依頼してきたのは、ソフィ・ドヌーヴの兄のエリック・ドヌーヴだ。  仕事で、父親と共にこのまま国の中央部の町を回らねばならないから、この子を先に家に帰して欲しいという。その後、エリックが屋敷に帰還するまでのソフィの身辺警護も含まれていた。 「女の子一人だけ屋敷に帰すなんて、ちょっとひどくないかしら」 「……父の命令は絶対ですから。私だけが残れと」  アルメルが棘のある言い方をすると、エリックは気弱そうに俯いた。  歳は自分たち姉弟と同じくらいか。金髪に青い瞳。短い髪も衣服も整っていた。力仕事を知らぬような細い体だが、背は弟とあまり変わらない。目鼻立ちは整っていて、十分に美青年の範囲に入る。 「私が帰るまで、ソフィをお願いします。妹は、心が……こうですから」 「昔から?」 「いいえ。昔は、はきはきした活発な子でしたよ。でも……」  エリックは言い淀んで、隣で宙を見ているソフィの頬を撫でた。 「とにかく、この子を守ってください」  何らかの原因で心の狂ってしまった子ということか。しかし、家庭の事情には踏み入らないほうがいいだろう。  報酬の額に半ば釣られる形で、アルメルとユリスは仕事を請け負った。  *  姉弟とソフィを乗せた馬車はヴァージュラックの街中を走り、日が高いうちにドヌーヴ家の屋敷に到着した。警戒していた襲撃はなかった。  都の貴族の屋敷さながらの重厚な石造りで、商家としては、過剰な威圧感が漂う。  ……家は住む人間を表すものだ。この家の主は、威厳や品格にこだわる性格だと、アルメルは踏んだ。  御者に使用人の代表を呼んでもらって、アルメルは自分たちの身の上と、エリックの依頼について話した。その間にソフィは、女使用人に屋敷の中へと連れられて行く。  エリックに持たされた手紙を渡すと、髪も髭も白い代表は、概ね理解しました、とアルメルたちを屋敷に入れた。何とも慇懃丁寧な仕草で。  屋敷の内装も豪奢だった。敷物や花瓶などの調度品は異国情緒にあふれて色彩に富み、交易で栄える家の趣がある。白い石で作られた床はよく磨かれていて、自分の汚れたブーツで踏むのは気が引けるほどだ。  使用人の男女にも教育が行き届いていた。服装も動作もきっちりし過ぎていて、なんだか却って落ち着かない。すれ違った警備兵も、がっちりと武具で身を固めていた。  使用人の代表は、姉弟の剣を預かると、客間に通した。  革張りの椅子に、南国から渡ってきた上等の木材で作られた机。敷物はふかふかで、染色も織り方も品がある。 「おかけください。私が当主代行としてお話をいたします」  着席して、アルメルは若い男の使用人が持って来た、砂糖のかかった焼菓子を眺めた。 「……私たちはお客じゃなくて、ソフィの護衛に来たんだけど」  アルメルは感想を率直に言った。菓子はおいしそうだが、仕事とは別だ。  向かいの代表は、アルメルとユリスを冷徹に見た後、口を開く。 「あなた方はお引き取り下さい。お嬢様をここまで連れてきてくださったことには感謝しております。護衛のお代は持って来させましょう。エリック様には、私から理由を説明いたしますゆえ」 「そうはいかないよ。依頼人はエリックだ。エリックが帰って来るまでが僕たちの仕事だ。あんたに言われて、引き下がるわけにはいかない」 「では私どもの屋敷が、危険であるとおっしゃるのですか」  代表は、ユリスに鋭い視線を遣ると、腹の前で手を組んだ。 「私に言わせれば、あなた方をこの屋敷に入れておくほうがずっと危険なのです。ご自分の下げてきた剣と、身の上をよくお考えください。エリック様のご依頼なのは間違いないでしょうから、こうしてお客様として接待しているに過ぎません」  本来ならばお前たちなど門前払いだ、という意味だ。使用人の代表の声は穏やかだが、有無を言わせぬ威圧を含んでいた。  出された焼菓子を一つつまんで、アルメルは考えを巡らせた。  理解できる範囲ではある。素性の知れぬ汚らしい剣士など屋敷に入れなくても、屋敷で雇った私兵で令嬢くらい守れて当然だ。  だがそれにしても、こうも威圧する必要はないのだが。  焼菓子の欠片を飲み込んで―― 「帰りましょう、ユリス」 「姉さん?」  アルメルは隣で驚く弟は気にせず、代表に話しかける。 「ここまでの報酬をいただけるかしら。途中で弟の怪我を医者に診せたから、治療費も欲しいわね」 「承知いたしました」  アルメルは、代表にかなり吹っかけた金額を要求した。すると、しばらく待たされた後、申告通りの額がちゃんと出てきた。  金額にぽかんとした弟の頬をつついて、アルメルは「表情を変えないで」と小声でささやいた。  報酬と預けていた剣を受け取り、屋敷を出る前。ソフィが階段の上から顔を見せた。彼女の後ろには、女使用人がべったり付いてきている。 「お嬢様、部屋から出てはなりません……お前、何をしている!」  代表の苛烈な声が飛んで、女使用人はびくりと震えた。 「お兄様は、どこ?」  ソフィはきょろきょろと玄関ホールを見回した。 「エリックならまだ帰らないよ」  ユリスが、出来る限り怖がらせないように言う。けれどもソフィの耳には届いていないようだった。 「お兄様、帰ってきて。ソフィは、お父様が怖い。嫌」  姉弟は、奇妙に思った。 「どうして父親が怖いの?」  ユリスが問うが、 「……あなた方には関係のないことです。お引き取りを」  傲然とした代表に押され、アルメルとユリスは屋敷から追い出された。  ヴァージュラックの商人街を、アルメルとユリスは通って行く。  夏の暑さもやや落ち着いてきて、過ごしやすくなっているせいもあるのか、日中でも人は多かった。通行客の溢れる中、果物や菓子を扱う露店の売り子が二人にも声をかけてくるが、相手にしないで歩き続けた。 「姉さん、これでいいの? あの爺さん、絶対何かあるよ」  使用人の代表が何か隠しているのは、アルメルも感じていた。 「でもあのまま屋敷の中で喋ってたって、埒があかないでしょ」 「だけどソフィが」 「武器職人の店に行きましょう。片手剣の一つくらい、これで買えるわ」  アルメルは荷物を示した。中には旅の道具の他に、先程もらった報酬が入っている。 「……穏やかじゃないね、姉さんも」  弟のために片手剣を用意しよう。用意する意味は、弟もすぐ理解したようだ。 「当然よ。このままじゃ寝覚めが悪いわ」  それに仕事を最後まで勤め上げないで、悪評が立つのも困る。  風が一つ、街を吹き抜けた。  生ぬるい風。  アルメルは口元を引き締めた。この後、あの屋敷で一波乱起こすのだから。   (2)  西方都市ヴァージュラックが夕の陽に照らされ始めたころ。片手剣を調達し、旅荷物を宿に預けたアルメルとユリスが、ドヌーヴ邸の近くに戻ってきた。  片手剣は、ユリスの腰に下がっている。アルメルはいつも通りの自分の剣だ。  しかし、正門は門番ががっちりと見張っていた。入れてくれはしないだろう。  屋敷をぐるりと回ってみると、使用人が使う質素な通用口があった。 「……忍び込めるかしら」 「開いてればいいけどね」  出入りする人間がいないかあたりを見回し、庭木に隠れながら二人は通用口に近づく。  意外にも、あっさりと戸は開いた。  お喋りしながら廊下を歩く使用人たちを、物陰に隠れるなどしてやり過ごし、アルメルとユリスはソフィの部屋を探そうとした。  昼間、ソフィは階段から下りて来た。つまり二階かそれより上なのだが、他の情報がない。  けれど運のいいことに、女の子用の上等な服を持った女使用人が通りかかったので、姉弟はその後をついて行った。階段を上り、二階の西のほうへ歩いて行く。  途中、アルメルは気になった。  屋敷の中に普通の使用人は歩いているが、武具を装備した警備兵が見当たらない。  通用口といい、妙に不用心だった。令嬢が襲われた後なのに。  服を手にした女使用人が、ある部屋に入って行く。しばらくして彼女が部屋から退出すると、アルメルとユリスは入れ替わるように部屋の扉を開けた。 「ソフィ!」  夕日の差し込む大きなガラス窓の前で、ソフィはぼんやりと立ち尽くしていた。  天蓋つきの大きな寝台、柔らかそうな椅子、花を活けた極彩色の花瓶……部屋の中の豪奢な調度品が虚しく見えるほどに、部屋の主には覇気がない。 「……剣士の、人たち。来たの」  ソフィは相変わらず生気のない声だったが、自分たちが来たことは理解してくれたようだった。 「もちろんよ」 「エリックからの依頼はまだ途中だったからね」  アルメルは、ここに着くまでに警備兵と一暴れすることも想像していた。なので少々肩透かしだが、剣を振るう必要がないならそのほうがいい。  今のところ護衛対象は無事――  女の悲鳴が聞こえたのは、姉弟が安堵したその時だった。  アルメルが部屋を飛び出すと、廊下には先ほどの女使用人が倒れていた。  その周りには、剣を下げた四人の黒装束の人間たちがいた。フードのせいで顔はよく見えない。身長と体格からするに、全員男だろうと思われた。  拳か剣の柄で殴られたのか、女使用人は起き上がれないようだ。  アルメルが剣を抜くと、黒装束の一人が気づいて斬りかかってきた。  斬撃を剣で受け止めた刹那、相手は、「早くその部屋に入れ! ガキは中だ!」と仲間に吠える。  狙いは明らかにソフィだ。ただの盗人じゃない。  黒装束のうち三人が、部屋目がけて進んできた。アルメルは連中に足払いをかけて、部屋に入るのを防ごうとしたが、上手くいかなかった。  自分に斬りかかっている黒装束も、逃がしてはくれないようだ。部屋の中の事態は、一旦弟に任せるしかない。   「あんな女の子に、寄ってたかって卑怯じゃないの?」  一合、一合と剣同士がぶつかる中、アルメルは挑発するように言った。  しかし、相手の黒装束は無言のままだった。  動きが軽いので、黒装束の下に鎧を着込んでいることはなさそうだ。ならば。  アルメルは剣同士の接触状態から腕ごと自分の剣を回転させ、相手の剣の下を潜り抜けるかのように動かした。そのまま腕を振りおろし、相手の首筋に刃を当てて一気に引く。  切り口から血を吹いてのけ反った相手を、アルメルは蹴った。どさりと仰向けに倒れた黒装束の胸に、止めの一撃を刺す。  黒装束の体から剣を引き抜いて、アルメルはソフィの部屋に戻った。  ソフィの部屋で、ユリスが黒装束三人を相手に、使い慣れない片手剣で防衛戦をしていた。  部屋の隅で、傍らのソフィを守りながら。  三人のうち一人が、アルメルが部屋に入ってきたことに反応して、アルメルに攻撃対象を変えて突き進んでくる。  剣を構えたまま突撃してくる黒装束を、アルメルはかわした。そのまま身をひるがえして斬撃を入れるが、これは相手の剣の平で防がれた。  剣同士の接触から、少しずつ剣をずらしながら、位置を探る。  相手に決定的な一撃を加えられる位置を。  先程まで三対一で攻める側であったのが、一対一になったことで不安が出たのか、相手は剣の先にぶれがある。  今だ。  アルメルは左手で剣の刃の中央やや上を持って、踏み込むと同時に相手の喉を突いた。すぐに剣を引き抜くと、倒れかかった相手の頭を、剣の柄頭で殴る。  相手の手から剣は落ち、体はそのまま床に倒れて絨毯を血で汚した。 「姉さん、助かった」 「あんただったら持ちこたえてくれるって自信があったからよ」  こういうとき、助けられているのはむしろ自分だと、アルメルはいつも思う。どんなときでも苦難を任せられる人間など、そうは得られない。  弟の剣が、黒装束の剣を弾いた。  床を回転しながら転がってきた剣をアルメルが退ける前に、ユリスの剣が黒装束の右腕を斬っている。  悲鳴を上げてその場にくずおれた黒装束の背から、アルメルの斬撃が入った。  黒装束の立場で見れば、三対一が、二対一に。そして、一対二になったわけだ。  残る一人の黒装束は、ひゅうと息を飲んだ。 「まさか、廊下の奴も、か……」  黒装束は、明らかに戦意を失っていた。たとえ一人でも、戦う意思に満ちた者を相手にするのは厄介だが、戦意のない相手を下すのは大したことではない。 「やめたい?」  剣の刃同士をぶつけた状態のまま、ユリスは相手に問いかけた。その声は、場違いに明るく響いた。  黒装束の後ろには、当然、アルメルが剣を構えている。  黒装束は、前後から、板挟みで敵意を浴びる状態だ。  アルメルから見える彼の背中は、恐怖で震えていた。  このまま斬り殺すのも一つの手段だが――  ユリスは相手の剣を押しのけると、剣の柄で頭を殴って、昏倒させた。 「ユリス、大丈夫?」 「ソフィは無事。腕は、まあ何とか」  最後の黒装束を裂いた布で縛り上げながら、ユリスはアルメルに微笑んだ。  しかし、これだけ暴れても家人が誰も来ないとは。  アルメルは、廊下で倒れていた女使用人のところに戻った。顔を軽く叩くと意識が戻ったので、誰か人を呼んできてほしいと頼んでおいた。  しばらくの間、姉弟とソフィの三人は、ソフィの部屋で待機することにした。床に転がる黒装束を含めるなら、四人になるが。  ユリスが守ってくれたソフィだが、戦いで流れた血が恐ろしいようだ。体は無傷のはずだが、窓の前でしゃがんだまま、ずっとすすり泣いていた。  耳障りでないと言ったら嘘になる。しかし、さすがにこの惨状を見て泣くなと叱る気にはなれなかった。  そのうち靴音が近づいて来た。先程の女使用人が誰かを呼んでくれたのだろう。  部屋に入ってきたのは、昼間に会った、白髪白髭の使用人の代表だった。彼一人だけで来たらしい。  代表は周囲に転がった賊の死体を一瞥し、硬い表情でアルメルとユリスを睨んだ。 「……昼間の剣士の方ですか。無作法でいらっしゃいますな。どこから入り込んだのですか」  こちらを見据える目は冷徹だったが、姉弟は全く意に介さなかった。むしろ白々しいとさえ思っていた。  この状況で、彼はソフィに駆け寄らないのだから。 「ソフィがまた狙われたよ。屋敷の中は安全じゃなかったの?」  ユリスが尋ねても、代表は答えなかった。 「ソフィには、何か命を狙われる理由があるのかしら」 「私は、何も存じ上げません」  アルメルにも代表は首を横に振った。けれど、アルメルは彼の言動を全く信じていなかった。  通用口は開いたまま、屋敷の中には門番のような警備兵はいない。それに、黒装束はソフィの部屋の位置を知っていたようだった。屋敷の中に侵入を手引きした者がいるとしか思えない。  そしてその人物は、警備兵の配置を変更できる立場にある。 「この家は危険だから、僕たちを置いてくれてもいいんじゃない? エリックの言うとおりにさ」 「私たちがいたら、都合が悪いことがあるのかしら」  姉弟は口々に言った。  代表がかすかに動揺しているように見えたので、アルメルはもう一歩詰め寄った。 「もしかして、ソフィが死んでしまえばいいと思ってたの?」 「そんなことはない!」  代表の叫び声で意識が戻ったらしい。転がっていた黒装束が、もぞもぞと動き出した。  何か喋りたいようなので、アルメルは猿ぐつわを外してみた。すると、彼は代表を、懐疑と憎悪を込めて罵った。 「くそじじい、話が違うぜ。警備兵はいないから、今度こそ楽に娘を殺せるって聞いてたのに……これはどういうことだ? 馬車の剣士は帰ったんじゃなかったのか?」  ユリスは足下の黒装束と代表を交互に見た。その眼は冷淡だ。 「賊を雇ってソフィを殺そうとしたの? 馬車で襲われたのも爺さんのせい?」 「私とて、私とてこのようなことはしたくありません! 旦那様が……!」  平静でいられなくなったのだろう。代表は、慌ててまくしたてた。  その後、彼は喋った内容にいたたまれなくなったのか、頭を垂れて黙りこむ。  ……代わりに、黒装束の罵り声とソフィの泣き声が、部屋を満たすことになった。  しばしの時間が流れたのち、代表はふと顔を上げた。窓の傍で泣いているソフィの姿を見て、何かを決意したように、アルメルとユリスに向き直る。 「……失礼を。あなた方にはむしろ、感謝しなければなりません。このような非道な行いに手を染めるなど……私はどうかしていました」 「おい、じじい、俺たちを騙したのか……ひっ!」  暴れるなという意味で、アルメルは黒装束に剣の刃をちらつかせる。あまりうるさいのも嫌なので、もう一度猿ぐつわを噛ませてやることにした。黒装束が何かうめいたが、聞く義理はない。  代表は大きく息を吐き出すと、一礼して踵を返した。 「どこへ行くの?」 「警備兵を呼んでまいります。あなた方は、ソフィ様と共にこの部屋にいてください」   (3)  警備兵による賊の「片づけ」が終わると、すっかり夜になっていた。  アルメルとユリスは、使用人の代表の私室に招かれて事の次第を聞いていた。  部屋はさほど広くないが、置かれた家具は品のいいものが揃っており、彼の屋敷内での地位がうかがえる。屋敷の主の信用を相当に得ていたのだろう。 「……旦那様から、伝令の早馬が来ました。屋敷の他の使用人たちに頼めることではありません。しかし、私には、お嬢様を自ら手にかける覚悟はできなかったのです」  ガラス窓を背にして語る代表の声は、沈痛に響いた。 「仕える家の令嬢の命を奪おうと企み、屋敷に賊を入れ、他の使用人には余計な怪我をさせてしまった。使用人頭がこれでは、ただの失態では済まされますまい。旦那様がお戻りになったら、暇を願い出る所存です」 「爺さんの処遇はこの際どうでもいいよ。どうして父親が娘を殺そうとするの?」  面倒くさそうに手を振って、ユリスが聞きたいことを聞く。  弟の態度は無礼だが、代表は特に不満を表に出すこともなく答えた。 「旦那様は、ソフィ様の扱いに悩んでおいででした。成人したら人前に出さねばなりませんが、あのご様子では、社交どころか結婚も難しいでしょう」 「だからって、殺すことはないじゃないか」  即座にユリスは言った。アルメルも全く同感だった。  生まれてすぐ死んでしまう赤ん坊は多いのに、せっかく育った我が子を殺そうとするなんて。  この家は、食い扶持に困るような寒村の農民でもないだろうに。 「……旦那様の真意は、旦那様にしか分かりません。お二人に、この屋敷の一室をお貸しします。エリック様のご依頼の通り、このまま、旦那様とエリック様のお帰りまでお待ちください」  代表は目を伏せ、肯定も否定もできない様子で言った。  姉弟は、一時の宿とはいえ、ドヌーヴ邸に滞在できることになった。  実家や安宿とは雲泥の差のふかふかなベッド。使用人が毎日掃除してくれる清潔な部屋。西から南から仕入れた食材で作られた豪勢な食事。  南国でしか育たないカルバロの亜種の果物や、蜂蜜や砂糖をたっぷり使った菓子など、庶民がそうそう口にできる物ではない。  ユリスの腕の傷の養生にも良かった。怪我のせいと思われる熱が出た日もあったが、おかげでゆっくり休ませることができた。  どれもこれも、普段の生活と比較すると、とんでもない厚遇だった。  「このままここで雇ってくれたらな」などと、よくない冗談が弟の口から出るほどに。  何日か経ち、エリックと、その父親が帰還した。  姉弟も、出迎えの使用人たちの間に混ざって見に行く。  エリックは、玄関ホールの上にソフィの姿を確認するなり、階段を駆け上って抱きしめた。  その様子を、兄妹の父――アロイス・ドヌーヴは、忌々しいもののように見た。  面白くなさそうに顔をしかめて、それ以上エリックとソフィを顧みることなく、さっさと自分の部屋に戻って行ってしまったのである。    ソフィの相手をしていたエリックは、姉弟の姿を見つけると、護衛の礼を言ってきた。  報酬の相談をしようとした彼に、アルメルは少し待ってほしいと頼んだ。  今回はソフィの護衛が仕事なのだから、お役御免の前に一つ、話をつけておきたいことがある。  アロイス・ドヌーヴという人物について、姉弟はこの屋敷に滞在している間に、使用人たちから話を集めていた。  誰に聞いても、商売には辣腕で、非常に気難しい人物という見解は一致していた。  厳しいのは昔からだったそうだが、妻を亡くした後はより傾向を強めたらしい。  ソフィが精神不安定になったのも、同じく母親の死が原因のようだ。  太陽が西に傾き始めたころに、アルメルとユリスは、アロイスの部屋を訪問した。    壁一面に帳簿の棚が並んだ部屋の中央に、アロイス・ドヌーヴはいた。  彼は、束になった帳面と紙、それにペンが置かれた机に向かっていた。二人が扉を開けて部屋に入っても、こちらの顔を見もしないで紙とにらめっこだ。  扉を開ける前に声はかけている。使用人の話では、在室中のアロイスは返事をしないので、一言挨拶して入ればいいということだった。 「……酒なら後でいい」  アロイスの声は低く、人を寄り付かせず拒絶するようなところがある。 「悪いけど、私たちはここの使用人じゃないわ」  それでもアルメルはひょうひょうと答えた。  いくらかの間を置いた後。ようやく、アロイスは手を止めてアルメルとユリスの顔を見た。  整えた淡い褐色の髪と髭。体格はがっちりとしていた。上等の上着の袖を肘までまくり上げ、太い腕を晒している。  優男のエリックとはまるで違う精悍な顔は、潜り抜けてきた人生の苦難の差だろうか。引き結んだ口元は剛毅だった。目は猛将のように精気に満ち、同じ場にいるだけで十分な圧迫を感じさせる。 「エリックの雇った剣士どもか。私に何用かね」  アロイスは、明らかに自分たちを歓迎していない。さっさと出ていけと言外に伝えていた。 「僕たちがいなくなったら、ソフィはまた狙われるんじゃないかって思うんだ」  けれども全く怯む様子もなく、ユリスは話しかける。  アロイスは目元を一層険しくした。 「……何が言いたい」 「使用人の代表から聞いてるわよ。あんたが娘を殺そうとしたって」  アルメルが大層な内容を軽い口ぶりで告げると、アロイスは薄く笑った。 「なるほど、私を脅してたかるつもりか。いくら欲しい」  ユリスは呆れ顔で首を横に振った。 「お金よりもさ、ソフィがこれから生きていけるようにしてほしいよ」 「私たちの仕事は終わったんだけど、契約が終わってすぐに護衛対象に死なれたら、寝覚めが悪いのよね」  こんなのお節介以外の何者でもないわねと、アルメルは心のうちで苦笑した。  しかしアロイスが変わらない限り、ソフィの身の危険は残るのだ。 「残念だが、子供とは家を継がすための道具だ。家の役に立たぬならば、不要だ。心の狂った娘など、嫁にも出せん」 「だからって殺すのか。あんたと娘、どっちが狂ってるんだよ」  弟が罵った。弟の言い方は粗野だが、アルメルも気持ちは同じだ。  アロイスは、ふん、と鼻を鳴らした。 「エリックの大馬鹿者が、ソフィにばかり構っているからな。エリックは腰抜けだが、仕事はまだ務まる。ソフィはどうにもならん。今度の旅でよく分かった。だから出先から屋敷に早馬を飛ばして、ソフィを片付けるように伝えたのだ」 「……一人だけ帰したのはそういうことね」 「本来ならば、旅先で私が片を付けるべきだったのだが、エリックの奴が止めおったからな。あの馬鹿息子め」  机の上の紙を、アロイスは、ぐしゃりと握りつぶした。  この父親は、子供とは家を継がせるための道具だと言い切った。  聞かされた身としては不快だが、世の中にはそういう父親もいるのだろう。  ……同時に、奇妙な感じだった。  跡継ぎならエリックが役目を果たすはず。  経済的に困っているわけでもないのに、少しばかり正気を失ったからといって、娘の命まで取るだろうか。それに彼女の心の病は、最近発症したものではない。  何か、他に理由でもあるのだろうか。急に父親の負の感情を引き出した何かが。  憎悪? 心を病んだソフィに、父の憎しみを買うようなことができるだろうか。  では……嫌悪? 「なぜ、ソフィを嫌うの?」  声に出した後で、アルメルはふと思った。  彼が嫌っているのはソフィだけではなく、エリックとソフィの両方ではないのか、と。 「……汚らわしいからだ。狂っている。もういいだろう、出ていけ」  吐き捨てるように言うと、アロイスはそれきり、口をつぐんでしまった。  アロイスの部屋を追われた姉弟は、今度はエリックの部屋を訪れた。  エリックは、ソフィと二人で長椅子に座って、弦の音楽家の演奏を聴いていたが、アルメルとユリスが用があるのならと、音楽家に席を外させた。  ソフィは相変わらず、どこに心があるのかといった風だ。しかしそれでも兄のエリックにはやはり反応するので、特別になついているのだろう。  姉弟はエリックに近づいて、今後のソフィの安全は、アロイスが考えを変えない限りどうしようもないと説明した。  対するエリックは、そうでしょうね、と気弱に返すだけだった。  この美青年の煮え切らない態度は、正直アルメルも少しいらいらするものがある。 「僕たちに依頼する前、父親と何かあったの?」 「アロイスがソフィを嫌うのは、心が狂ってしまった以外にも理由があるのかしら」  アルメルとユリスが尋ねると、エリックは綺麗な顔を歪ませた。そのまま黙ってしまう。  ……妹とは違う方向で、扱いの面倒なお坊ちゃんだ。もどかしくて仕方がない。  喋りたくないならいいのだけど、とアルメルの喉から言葉が出かかったとき。 「……お話します」  エリックは、ためらいながらも姉弟の顔を見た。 「もともと父は、ソフィを商談の旅に同行させることに反対していました。でも家に残すのは不安で、私がソフィを連れ出したんです。  ですから父はずっと、機嫌が悪かったのです。ソフィはこんな様子ですから、商談相手の家で困ったことを言うときもありました。隣の部屋で待たせているだけで、泣き出したりもしました」  仕事なので我慢していたが、姉弟も、ソフィの泣く声にはいい思いはしない。馬車の中では辟易していたのが本音だ。  ソフィの金色の髪を撫でながら、エリックは続けた。 「父はますます不機嫌になりました。ある晩……そう、あなた方に依頼する前です。その……」  エリックは一旦言い淀んで、視線を彷徨わせた。 「いえ、こんなことを話せるのは、あなた方くらいかもしれませんね」  彼は重苦しく、言葉を紡ぐ。 「ソフィと二人でいたのを、父に見つかりました」 「見つかった、って……」 「私は、ソフィを愛しています。妹としてではなく、女として」  ――汚らわしい。狂っている。アロイスはそう言った。  父親には……厳格な父親には、許しがたいことだったのだろう。  息子と娘の関係が。  そしてそれは、子に家を継がせるという、彼の目的を妨げる。 「父は、激昂しました。その場でソフィを殺そうとするほどに」  そうなると、普通ならば男性のエリックのほうに攻撃が向きそうなものだ。跡継ぎを考えたら、エリックは残すしかないと判断したのだろうか。 「ソフィだけを家に帰すことにするのが、精一杯だったんです」 「エリック」  ユリスが依頼主の名を呼んだ。その声に、エリックはびくりとした。  隣にいたアルメルも驚いた。弟は、本気で怒っているようだった。 「だったら、僕たちに護衛の依頼をするより、ソフィを連れて二人で父親から逃げ出すべきだったんじゃないのか」 「……」 「エリック!」  再び、ユリスが依頼主の名を呼ぶ。前よりもさらに苛辣に。  自分と同年代だからこそ、余計に彼の弱さが気に障るのかもしれない。 「ユリス、相手は依頼主よ。萎縮させてどうするの」 「だけど姉さん!」  アルメルが、エリックに掴み掛らん勢いのユリスを引っ張って止めようとしたとき―― 「やめて」  か細い少女の声が、荒立った姉弟の耳に届いた。  ソフィだった。ふるふると首を振り、金の髪を揺らして喋る。 「……ソフィは、お兄様が大事」  エリックの腕に抱き着いて、ソフィはすすり泣いた。  妹を落ち着かせるようにさするエリックが、俯いて、弱々しく震えた。 「あなた方は、強いです。私は、弱いんです。父の言いなりになって、家を継ぐしか生きていく手段がありません。  父のような豪胆さも、手腕も、私にはありません。世間に放り出されて、心の壊れた妹と生きていけるでしょうか」  ユリスは文句が山ほどありそうだが、今度は何とか黙っていてくれた。  アルメルは頭を冷やす意味で、一つ息を吐いて黒髪を掻き上げた。  無力感や徒労感が、どっと圧し掛かってくるようだ。  ただ、言うべきことには迷わなかった。  アルメルはエリックの前に出て、告げた。 「ごめんなさいね、弟が怖がらせて。ところで、報酬の話をしてもいいかしら」 (4)  依頼主がこれでは、こちらとしても引くしかない。  いくら可哀想でも、自分たちがソフィを連れ歩くことはできないのだから。   部屋で仕事に追われる辣腕の父。  部屋で音楽家の演奏に聴き入っていた気弱な息子。  ソフィの件がなくとも、この家の将来がどうなるかなど、見え透いている気がした。    アルメルは、報酬についてエリックに希望を申し出た。  使用人の代表から既にいくらかもらっているから、残りが欲しいと。  *  仕事を終えた姉弟は、ヴァージュラック東区のカナー聖堂に立ち寄った。以前の依頼で知り合った画僧が描いたという壁画を、見てみたかったからだ。  カナー聖堂はロロの町にある礼拝所よりももっと大きな建物で、堅牢な建築様式だった。  在籍する聖職者の数も多いようだ。そのうちの一人に尋ねてみると、僧房に近い通路の壁に、目当ての壁画があるという。   「やっぱり絵は上手いね。描いた本人は性格悪いけど」  ユリスが壁画を眺めながら褒めた。  彼の見ている壁には、聖母が赤ん坊をあやす絵が描かれている。他にも、経典の中の場面を描いた壁画が、通路に何作も並んでいた。  アルメルとユリスの近くを、絵を見に来た教徒とその案内らしい聖職者が通りかかった。彼らはしきりに壁画を賞賛して、にこやかに通路を歩いて行く。  絵を描いている間の画僧の苦悩など、多くの人間は知りもしないか、どうでもいいのだ。  ……ここの壁画を見ると、アルメルはむしろ胸が痛くなる。  壁画を描いた画僧といい、今回の依頼人といい、禁じられた恋の行く末は苦しい。 「姉さん」  呼ばれて、アルメルは弟のほうに振り返る。  見慣れた顔の緑の瞳に、迷いがちらついていた。 「父さんと母さんは、僕たちを、家を継がすための道具だと思ってたのかな」 「馬鹿言わないで。そんな人たちじゃないでしょ」  アルメルは頬をふくらませて、弟の顔をつついた。 「ごめん、聞いた僕が悪かった。それじゃあさ、」  姉の指を下ろしながら、弟はまた、問うてきた。 「今の僕が姉さんのこと好きだって言ったら、父さんと母さんはあんな風に嫌うのかな」  “あんな風”とは、アロイスを差すのだろう。 「……どうかしらね」  アルメルは、ただそれだけ言った。  父と母は帰って来ないから、そんなこと知りようがない。  ……知るのも、怖い。 「ユリス、腕の傷は大丈夫?」  アルメルは、馬車で襲撃されたときに、弟が斬られた箇所に目を遣った。袖の上からは見えないが、腕には今も包帯を巻いている。 「時間さえ経てば多分ね。こっちも練習しようかな。もらっていい?」  ユリスは、腰に下げていた片手剣を軽く叩いて示した。 「あげるわ。帰ったら叔母さんのとこで練習させてもらったら」 「ああ、叔母さんの訓練所なら片手剣使いもいるね。慣れたら手合せもさせてもらおう」  旅荷物のなかに入った財布は、珍しく重い。  今回もらった報酬の一部は、弟が叔母の訓練所に持って行く授業料に回そう。  残りは酒代と……酒代と、あと何か、使うことがあれば、だ。  (姉と弟と狂人・了) ■7 姉と弟とパン屋 (1)  暑さは遠のき、実りの秋を告げる風がロロの町を吹き抜けるようになった。  空は青く澄み渡り、雲一つない、そんなある日の午後。  弟のユリスが、叔母の剣術訓練所から帰宅した。  パンの山ほど入ったかごを抱えて。 「ユリス、こんなにたくさんどうしたの?」  アルメルは驚いて尋ねた。  弟が持って帰ってきたかごには、バゲットや干したウルカの実を混ぜたパン、黒っぽいパンなど、大小さまざまなパンが盛られていた。こんがり綺麗に焼けていて、とてもいい匂いがする。 「もらったんだよ」 「誰に?」  ユリスはげんなりした様子で、大きなため息をついた。 「……それなんだけどさ、聞いてよ。練習にならないよ」  叔母の剣術訓練所は、ロロの町の商業区に近いところにある。  町外れのこの家と違って、当然、周囲で生活する人は多い。 「前に教わりに行ったときだから四日前か。訓練所の前で、向かいのパン屋の女の子が、じーって僕の顔を見てきたんだ。そのときは何だろうと思ってたんだけど、練習終わって訓練所から出てくるまで、僕を待ってたみたいでさ。いきなりきゃあきゃあ騒ぐんだよ。カッコいい人見つけちゃったとか何とか」  食卓について、ユリスはカップに酒を注ぐと、喉に流し込んだ。  向かいに座ったアルメルは、弟の話を面白く――同時に軽く嫉妬しながら聞いていた。  要するに、弟は女の子に惚れられたらしい。  けれども本当に困っているのか、のろけているようには全然見えない。せっかくの酒なのに、あまりおいしそうには飲まないのだ。 「それから毎日訓練所に来て、僕は来ないのかって叔母さんや他の弟子に聞いてたらしいよ。で、今日僕が行ったら、捕まった。稽古を見学させてほしいって、訓練所の中に入ってきた」  行動力のある女の子だ。  アルメルは苦笑して、机の上に置いたパンのかごをつつく。 「このパンはその子の差し入れなのね」 「そう。僕はみんなで分けようって言ったんだけど、全部持って帰れって叔母さんが」  頬杖をついて、弟は続けた。 「勘弁してほしいよ。あの子、僕が何かするたびに声を出すんだ。おかげで他の弟子たちがにやにやしてこっちを向いてくるから、集中できない」  情景を想像して、アルメルは声に出して笑った。  ……それは確かに恥ずかしいかもしれない。  アルメルも酒の入ったカップを口に運んだ。値段の割には、匂いと味はまあまあだ。 「その子は何歳ぐらいなの」 「多分僕より二、三歳下」 「他の弟子さんたちは文句言わないの?」 「言わない。だって叔母さんが面白がってるから。甥っ子がようやく姉離れできそうだって」  苦々しい顔を作って、ユリスはひらひらと手を横に振った。  先生がそれでは、弟子たちの態度も似たようなものなのだろう。剣と関係ないことで注目されるのは、あまり気分がよくないようだった。冷やかす者もいるのかもしれない。 「だからさ、せっかく授業料払ったのにもったいないけど、叔母さんのとこにはしばらく行きたくなくなったんだよね」  弟は、ぐいと酒を喉に流し込んでカップを空にすると、また注いだ。  愚痴を聞いてやるのは構わないが、これでは悪い酒になりそうだ。アルメルは、酒の容器を弟の前から自分の手元に引き寄せた。 「辞めたいならあんたの好きにすればいいけど、でもお礼くらいは言ってきなさい」 「パンの? 稽古の?」 「両方。私も一緒に行ってもいいわよ。もらうわね」  かごのパンを一つ手に取って、アルメルは口に入れた。  木の実や干したウルカの実を混ぜた生地はふかふかで、素朴な味がした。  翌日の朝。  かごを持ったアルメルとユリスは、叔母の訓練所を訪問した。  叔母を呼んで正直に事情を話すと、彼女は案の定、残念がった。 「あんたたち……いつまで姉弟でべったりしてるつもりなのか知らないけど、二人とももう少し将来のことを考えてほしいわ。  でもまあ、ユリスが嫌なら仕方ないわね。また落ち着いたら練習においで。剣の相手ならここにたくさんいるからね。たまには姉弟以外で打ち合うのもいいものよ」  と、しぶしぶながらも一応は納得してくれたので、ひとまずよしとする。  さて、次だ。  叔母の訓練所の向かいに並ぶ店の一つに、《金色三葉》と書かれた看板のパン屋がある。  白壁の店の前には花を植えた鉢が並び、童話の中のお店のような、可愛らしい雰囲気があった。  通りがかる人々が店のほうを振り返るのは、パンの焼けたいい匂いが漂うからだろう。 「あの店の子よね?」 「そうだよ」  ユリスに確認して、アルメルは店の入り口に近づく。 「きゃっ」  急に店の扉から女の子が出て来たので、あやうく尻もちをつくところだった。 「やだ、ごめんなさい、お客さん……お怪我はないですか?」  女の子は胸の前で手を組んで、おろおろしている。  黒い髪に黒い瞳、長く伸ばした髪を後ろで一つに束ねて、頭巾を被っている。年齢は十代後半に見えた。成人したばかりか、少し経ったか、というところだ。大きな声と明朗な喋り方から、活発な印象を受ける。  恋人……引いては将来の夫探しを頑張るような年頃の、健康的で可愛い娘だった。 「私は大丈夫よ。あなたはここのお店の人?」 「はい。レベッカって言います。……あ、ユリスさん!」  アルメルの後方にいたユリスに気が付いて、レベッカは目をきらきらさせた。頬にみるみる赤みが差していく。 「来てくれたんですか? あの、昨日のパン、どうでしたか? お口に合いましたか?」 「うん、まあ……」  弟は歯切れが悪かった。あまりレベッカの応対をしたくないらしい。助けてくれと言わんばかりに、アルメルのほうをちらちら見てくる。  正直複雑だが、仕方ない。アルメルはレベッカにかごを渡した。  もらったパンはおいしかったが、食べきれないのでまだ家に残っている。 「ありがとう、レベッカ。私たちはパンのお礼を言いに来たの。これ、お返しするわね」 「あ、はい……あなたは、ユリスさんとはどんな関係ですか」  ……むしろそれは、自分から言いたかったのだけど。  アルメルは言葉を飲み込んで、出来るだけ愛想よく、レベッカに告げる。 「私はユリスの姉のアルメルよ」 「え、お姉さん?」  意外だったらしく、レベッカは目を丸くして、アルメルとユリスの顔を見比べた。 「レベッカ、何やってるんだい? お客さんかい?」 「お母さん、その」 「店があるんだから戻っておいで」  そうこうしていると、店の奥から、レベッカの母親らしき人物が呼ぶ声がした。  レベッカは困ったように笑って、白い歯を覗かせる。 「ごめんなさい、店に戻りますね。あの、ユリスさんが会いに来てくれて嬉しかったです。それじゃ、また」  そして耳まで顔を赤らめて、かごを抱えてぱたぱたと店の中に戻って行った。  ……実に分かりやすい態度の女の子だった。 「惚れられてるわね」 「……みたいだね」  弟の声は、他人事のように冷めたものだった。 「レベッカに話があるなら、今行って来たらどうかしら」 「気乗りしないよ」  まだ午前中だというのに、ユリスは疲れたような顔をして、家に帰りたがった。  秋の澄んだ空の下、アルメルは手のひらを顔に当てた。  決着は少し、面倒そうだ。   (2)  依頼の斡旋所に行っても、特に仕事が来ていないようだ。  斡旋所の受付人も、「あはは、平和で何よりですよー」と皮肉げに笑って濁していた。  へこんだくずかごが床に転がっていたのは、受付人が退屈のしすぎで蹴飛ばしたからのように思われたが、気にしても仕方ない。 「ユリス、今暇してる? 釣りにでも出かける?」  帰宅した昼下がりに、アルメルは寝室で寝転がっていた弟に声をかけた。  「何かあるの?」 「空いてるなら稽古場で相手して」 「やるやる」  アルメルの誘いに、ユリスは体を起こすと喜んで乗ってきた。  夏場とは違って、今は稽古場も蒸し風呂にならなくていい。  板を張っただけの床は、叔母の訓練所に比べてずっと簡素だが、使うのは自分たちだけだったのであまり気にしていなかった。  稽古場の中央で、二人ともが自分の長剣を上段で構える。  ――先に動いたのはアルメルだった。床を蹴り、上から斬りかかると、対峙したユリスが足を踏み出した。剣と剣をぶつけて、攻撃を防ぐ。  ユリスは交差させた腕をそのまま動かし、裏刃でこちらの手を狙うつもりのようだ。  アルメルは少し後ろに引いて、瞬時に剣の先をずらし、そのまま回し斬りを仕掛けた。  その斬撃を、もう一度剣で防いだユリスが、刃の向こうから楽しげに笑った。  つられて、アルメルもにやりとする。  ぶつかる剣と剣が、刃鳴りを稽古場の中に響かせた。  しかし一合、一合と打ち合うたび、じわじわとアルメルは後方に押される。 「僕が勝ったら、夕飯の当番代わってよ」  弟から、余裕のある軽口が聞かれた。 「調子に乗らないの」  最初から分かっていることとはいえ、弟の斬撃は、小柄なアルメルが受けるには重い。  それに長期戦は体力以上に精神力の維持が厳しい。  単純な力勝負なら弟に勝つのはまず無理だから、どこかに隙を見出す必要がある。    さあ、どう動くか――  間合いを取り直して、アルメルが剣の柄を力強く握ったとき。 「……ちょっと待って。いったん止めよう」  何を思ったのか、弟は一方的にやめてしまって、木窓に近づいた。途端、 「きゃああああああああああ!」  ……女の子の悲鳴がしたかと思うと、壁の向こうの地面に、どさりと何か重いものが落ちた音がした。  聞き覚えのある声だ。 「うちまで来て覗きか……」  ユリスが呆れたようにつぶやいた。  二人で外に出ると、窓の下で、レベッカが尻もちをついていた。弟が木窓に近づいたので、驚いて後ろに倒れたらしい。 「あの、ごめんなさい。家のほうは留守だったから、こっちにいるんじゃないかと思いまして」  姉弟に見下ろされ、何とか笑顔を作るレベッカは、エプロンも靴も泥で汚していた。  レベッカは店を抜け出して、剣の練習を見に来たのだそうだ。  ……彼女が見たいのは剣の練習ではなく、ユリスなのだろうけど、当のユリスは全然嬉しそうではない。顔には、邪魔しに来るなよと書いてある。  アルメルは、言いたいことがあるならはっきりしなさいと弟をつついた。  しかし、レベッカのパン屋は叔母の訓練所の近くで、叔母や弟子たちがたびたび通っている店なので、どうも毅然とした態度を取りづらいと彼は言う。 「僕がここに住んでるって、誰に聞いたの」 「剣の訓練所の弟子さんに」  服についた泥を落としながら、レベッカは答えた。  まあ、そんなところだろう。叔母の教え子の中に、口の軽いのがいるようだ。 「レベッカって、昔からあのパン屋にいた? 僕たちは子供のころ、あのあたりに住んでたけど会ったことないよね」 「《金色三葉》は、母方のおじいちゃんのお店です。少し前に、お母さんとこっちに引っ越してきたんです」  父親と平穏無事に暮らしていたなら祖父の家に移り住むこともないだろうから、父親とは死別か、家庭内不和なのだろう。  レベッカ本人の表情はあっけらかんとしているが、内心どう思っているかは定かではない。 「こっちに来たら、いい人見つけてさっさと結婚しろっておじいちゃんがうるさくて……あ」  大きな声で喋ってしまってから、レベッカは恥ずかしそうに赤くなった。  ユリスと近くで話せるのが嬉しいらしく、レベッカの声は弾んでいた。 「ユリスさんの好きな事って何ですか」 「これ」  対するユリスは、持っていた剣をぶっきらぼうに示した。 「それは仕事……と聞きました。他には」 「魚釣りじゃないかしら」  今度はアルメルが答えた。  ユリスは、依頼のないときは近くの川に釣りに出かけることがある。まあこれも、趣味というより食べ物を得るための手段と表現したほうが的確だが。  その後しばらく質問攻めに遭ったユリスは、退屈そうに頭の後ろを掻いた。  アルメルも、すっかり体が冷えてしまった。 「ごめん、まだ練習の途中だから。姉さん、戻ろう」  弟に同意して、アルメルは稽古場の戸に手をかけた。後ろから、声がかかる。 「待ってください。中で、見てちゃいけませんか」 「……“剣が見たい”なら、好きにすればいいよ」  ユリスもさすがにうんざりしているのか、レベッカに少し棘がある言い方をした。  アルメルにはなんとも複雑な状況だった。  レベッカは、単にユリスが無愛想な性格なだけだと思っているのかもしれないが。  自分からすれば、弟の態度は普段よりもずっと冷たいのだ。   姉弟に続いてレベッカも稽古場に入って来たので、アルメルは一応、釘を刺した。 「レベッカ。あなたには剣は珍しいかもしれないけど、あまり騒がないでもらえるかしら」 「はい! あたしは見ているだけだから、普段通りにしててください」  レベッカは元気よく返事をした。では、そうさせてもらおう。  置いてある防具が珍しいのか、稽古場に入ったレベッカはきょろきょろとしていた。  汗をかいた後の体はあまり気持ちのいいものじゃない。  稽古場の隅に、水の入った器と、布が持ってきてある。  アルメルは体を拭こうと、上の服を脱いで、上半身裸になり―― 「きゃああああああああああ!」  ……本日二回目の、レベッカの悲鳴が響き渡った。  非常に、うるさい。 「そんなに驚くこと?」  呆れ顔を作って、アルメルはレベッカのほうを向いた。この女の子の大声は疲れる。  同性同士なのに、レベッカは顔を赤くして、手で覆っていた。  見ているだけだから普段通りにしていてと言ったのはレベッカなのに。 「ぬ、ぬ、脱がないでください! 恥ずかしくないんですか」 「ええ、全然」  アルメルは平然と答えた。ここにいるのは弟と、同性のレベッカだ。  むしろ、今みたいに騒がれるほうがよっぽど恥ずかしい。  ユリスまで平静にしているので、レベッカはなおさら混乱しているようだ。 「いくら家族でも、ユリスさんは異性ですよ。異性の前で堂々と胸をはだけるなんて!」  信じられないといった様子でまくしたてるが、姉弟はどこ吹く風だった。 「……家の中はいつもこうだし」 「怪我をしたときは脱がないと何もできないのよね。二人行動だから、弟に見てもらうしかないのよ」  姉弟は家の中でも、外で怪我をしたときでも、お互いいつも裸を見ているので、今更どうとも思わない。 「怪我って……」  恥ずかしそうにしていたレベッカが、アルメルの肌を改めて見て、今度はぎょっとした。 「何ですか、それ。その傷痕」 「仕事で出来た傷よ」 「さらりと言わないでください。女の人がそんな傷なんて……」  レベッカは、痛ましげに眉をひそめた。  まあ、これは分かる。自分の胴や腕についた傷痕を見た人は、あまりいい気分はしないだろう。 「僕も似たようなもんだよ」  横からユリスが口をはさむ。  アルメルが服を脱いだあたりから、彼は明らかに姉の上半身を注視しているが、レベッカは気付いていないようだ。  ただただ、アルメルとユリスの顔の間で、視線を彷徨わせている。 「……死ぬような怪我も、するんですよね」 「仕事だから、時にはね」 「辞めちゃいましょうよ、そんな仕事」  レベッカがこぼしたのは、アルメルとユリスの身を案じてのことだろう。  けれどその言葉は、確実に、ユリスの不興を買った。   (3) 「……辞める、ね」  ユリスは、レベッカの言葉を繰り返した。  彼の緑の瞳は、少なからぬ不満を映しているのだが、レベッカは気がついているだろうか。 「辞めて、僕は何をすればいいの? レベッカのパン屋で雇ってくれる?」 「え、ええ。おじいちゃんのお店ですけど、一緒に働いてくれるなら、雇ってもらえるように頼んできます! 死ぬような怪我はしなくてよくなります!」  レベッカはぱっと明るい声を出した。  話が自分の都合のいいほうに転んだと思ったのかもしれない。  ……横で聞いているアルメルには、全く逆に感じられたのだが。  正直、レベッカには自分から物を言いづらいので、アルメルは黙っていた。  ユリスの妻か恋人であるならともかく、自分は姉だ。少なくとも社会的には。 「これ、持てる?」  ユリスは、自分の剣をレベッカの前に差し出した。  レベッカは唐突な話にとまどったようだが、頷くと、恐る恐るユリスの剣を取った。 「重たい……です」  女手には重い剣だ。アルメルでもそう思う。だが弟が言いたいのは、単なる重量のことではないだろう。 「これさ、何人もの人間を殺してるよ」 「!」  弟の言葉にびくりとして、レベッカは剣を取り落した。  ごとり、と鈍く重い音が、稽古場に響く。  落とした剣を拾おうと、青くなったレベッカがしゃがんだとき。 「レベッカは言ったよね。自分のパン屋で働くなら、死ぬような怪我をしなくていいって」  彼女の頭の上から、ユリスが話しかけた。  弟は、傍から聞いているだけなら普段どおりの口調だ。けれどレベッカには、脅しに近い響きで耳に入って来ているかもしれない。下を向いたレベッカの顔が上がらないのだ。 「そうかもね。だけど、僕は自分の家の仕事に誇りがあるんだ。たとえ、世間的に綺麗な仕事じゃなくても。辞めろって言われて、簡単に辞めてしまえるものじゃないよ」  剣を拾おうとしたものの、手が進まないらしいレベッカの前から、ユリスがひょいと自分の剣を拾った。  彼はそのまま話を続ける。 「それに、僕は何人も人を殺してきてる。そういう人間を、家に入れる度胸があるのかな。レベッカだけじゃなくて、レベッカの家族にも」 「……」  レベッカは、しゃがんだまま答えなかった。  答えられない様子だった。  服を着直したアルメルが、押し黙ったままのレベッカを見据えた。  レベッカには、弟の相手は無理だろう。  彼女への嫉妬で評価を下げているわけではない。客観的に覚悟が足りないのだ。  もっとも、そんな覚悟をただのパン屋の女の子に要求するほうが間違いなのだろうけれど。 「レベッカ。あまりこういうことは言いたくないのだけど」  冷や汗を滲ませているレベッカに向けて、アルメルははっきりと告げた。 「あなたと私たちは、住む世界が違うのよ」  レベッカは勢いよく稽古場の戸を開け、何も言わずに飛び出して行ってしまった。  アルメルもユリスも、止めなかった。  一瞬だけ見えたレベッカの顔は、ぐっと奥歯を噛みしめていた。  開けっ放しの戸から屋内に吹き込む風が涼しい。  少し、残酷だったかなとも思う。  だが遅かれ早かれこうなっていただろうから、結局は時間の問題でしかない。  アルメルの背後から、弟が呼んだ。普段どおりの、からりとした声で。 「姉さん、さっきの続きやろうよ。夕飯の当番を賭けて」  * 「向かいのパン屋の娘さん、結婚が決まったって。相手は商業区の真ん中の、菓子屋の息子さん」  姉弟が叔母の訓練所に寄ったとき、叔母は開口一番にこう言った。 「……それに引き替えあんたたちと来たら」  叔母はよほど当てこすりを言いたかったらしい。  わざとらしい大きなため息をついて、アルメルとユリスの顔を見た。  叔母もラウラス家の生まれだから、姉弟と同じ、黒髪に緑の眼だ。その黒髪を手でぱっと払うと、叔母は女性にしては筋肉質な腕を組んだ。 「あんたたちのべったりは、言って直るもんじゃないと思ってるわ。だけど、兄貴がどう思うかって考えたらね……」  ここの経営のことより頭が痛いわ、と付け加えて、叔母は教え子の相手に戻っていった。 「ねえ、レベッカがうちに来てから十日くらいしか経ってないよね。こんな早くに結婚決められるものなの?」  その後買い物に行く途中、ユリスは不思議そうに、アルメルに尋ねてきた。 「おじいさんの紹介じゃない?」 「ああ、そうかも。早いうちに結婚させたがってたんだっけ」  レベッカが喋っていたことを思い出して、ユリスは一応納得したようだった。  しかしそれでも、切り替えの早いことだと思っているようだが。 「……レベッカを振ったのは、勿体なかった?」  姉弟並んで歩きながら、今度はアルメルがユリスに聞いた。 「まさか。姉さんが言ったとおり、気がないならぐずぐずしてないで早く断るべきだったよ。それに、姉さんは僕の料理の腕、知ってるじゃないか。パン屋が似合うと思う?」  ユリスが半眼で冷めたことを言うので、アルメルは少し、想像してみた。弟のパン屋姿を。  結論はあっさり出た。 「似合わないわね」  (姉と弟とパン屋・了) ■8 姉と弟と旅人 (1) 「初めまして。ボクはブレーズ。港湾都市トランドーニュまで旅の護衛を頼むよ」  今回の依頼人男性が、大げさな身振り手振りをつけて挨拶をした。  港湾都市トランドーニュは、街道を東に進んだ果てにある。ロロの町からは北東に位置し、都よりもさらに向こうの、北の海に面した大きな港を抱える街だ。 「護衛の仕事は承るわ。ところで、どんな用事でトランドーニュに行くのかしら」  アルメルが尋ねると、軟弱な顔立ちの依頼人は、へらへら笑いながら答えた。 「トランドーニュに用はないよ。旅自体がボクの目的なのさ」  晩秋の曇天の下、姉弟と依頼人は街道を東に向かっていた。冷えた風が吹くので、姉弟は羽織った外套をきゅっと締めている。もちろん、腰の剣を抜くのに邪魔にならないようにして。  弟のユリスは、ブレーズをちらと見た。 「トランドーニュで誰かに会うとか、商売の都合とかじゃなくて、純粋に行きたいだけなんだっけ?」 「そうみたいね」  気の抜けた声で聞いてきたユリスに、アルメルも気の抜けた声で適当に相槌を打った。  アルメルとユリスは、変わった人物から依頼を受けることは時々ある。それでも、今回の依頼人には、姉弟揃って首をかしげるばかりだった。  ……ブレーズと名乗ったこの依頼人の考えていることは、よく分からない。  年は二十代の後半か、せいぜい三十。くすんだ青色の外套で身を包んでいた。身に着けているものは薄汚れていて安っぽく、金持ちの道楽で旅をしている風ではない。  細身で背は高く、長く伸ばした銀髪と青い瞳の取り合わせは見栄えがいい。着る物さえ小奇麗にしたら、さぞ女たちの目を引くことだろう。軟弱そうな顔立ちの印象を差し引いてもだ。   ブレーズは、鼻歌を歌いながら、街道脇の雑草の間に生えた小花を愛でて歩いていた。  悪人ではないと思う。しかし、何とも危機感がないというか、能天気というか、どうしても幼い言動が目立つ男だ。   これからの季節、北東部はかなり寒くなる。大雪になることもある。少なくともアルメルにとっては、用もないのに行くような地方ではなかった。同じ海の側なら南の海のほうがずっといい。  ただし、トランドーニュには街道を行くだけで着くのだから、依頼としては比較的楽な部類ではある。  だから姉弟は手頃な仕事として、この依頼を引き受けた。 「アルメル君。キミたちの剣は、やっぱり竜を討つような業物なのかい?」  花と別れ、ゆらゆらと石畳の上を歩きながら、ブレーズがのん気な声を出した。  ……竜。当然だがそんなものは架空の存在だ。翼や角を生やしたトカゲのような生き物だと言われる。派手で勇ましく見える風貌が好まれて、旗や細工物の意匠で使われることはたびたびあるが、実在はしない。  竜を討つだなんて、からかわれているような気がするが、 「人は斬っても、竜は斬ったことないわ」  アルメルは真顔で、正直に返した。 「人? それはつまり、塔のてっぺんで悪しき呪術の研究にいそしむ、邪悪な魔法使いの退治かな?」  ブレーズがのん気に言う。今度は、魔法使いと来た。 「相手は単なるごろつきが多いわ。盗みや暴力の。俗悪よね」  依頼人がからかっているのか真面目なのか分からなくなってきたが、アルメルは再び正直に返した。  周囲の村の人間に、呪術を使うと恐れられていた老婆に会ったことならある。彼女は森に住み、薬草を煎じて処方しているだけだった。邪悪ではないし、退治の必要もない。 「じゃあ、剣を持つ常に正しき者にもたらされるような栄光は」 「ないわね。家はあちこち痛んできたし、お金に恵まれてもいないわ。剣なんて振り回してるから、近所の人からは避けられてるみたい」  アルメルは三たび正直に返した。  姉弟は、自分たちの仕事を綺麗だとも正義だとも思っていない。  栄光ともほとんど縁がない。せいぜい、剣術大会で入賞したときくらいだろう。  全部を否定され、ブレーズはつまらなさそうに、諸手を広げてかぶりを振った。 「キミたちは強い剣士だって聞いてたから、壮大な英雄物語があると思ったのに。これじゃ、あまり話の種になりそうにないなあ。残念」 「当たり前よ」  アルメルは淡々と言った。 「じゃあユリス君、キミのほうは」 「姉さんと同じ」  アルメルとブレーズのやりとりを、半ば呆れて聞いていたユリスは、姉と同じように淡々と言う。  けれどブレーズは、別段気を悪くした様子はない。姉弟だから似るのかなと、面白げにくすくす笑っていた。 「ねえ、ブレーズ。旅さえできればいいなら、どうしてわざわざ寒い地方に行くの?」  歩きながら、弟が疑問を口にした。アルメルもそう思っていた。トランドーニュに用がないなら、南に行ってもいいはずだ。 「ユリス君は寒いのは嫌いかい?」 「僕はそこまででも。姉さんが苦手だから」  聞くなりブレーズは、それは悪いことをしたね、とアルメルのほうを向いて謝ってきた。  こっちはお金をもらう立場だから、依頼人は気にしなくていいのに。  しばらくして、ブレーズはユリスの顔を見て、ぽんと手を打った。 「ああ、ユリス君に理由を答えていなかったね。寒いときに寒い地方に行くほうが、物語になるから行くのさ。冬の風景の中、旅人が北へ向かい、北の町で暖を取り、物語が生まれる。そう思わないかい?」  ブレーズは唇を動かしながら、両の手のひらをぱっと開いて上に向けた。  アルメルとユリスは反応に困った。同意を求められても、今一つぴんと来ない。  しかし……動作のいちいちが芝居じみた依頼人だ。 「ブレーズって、昔、旅芸人でもしてた?」  弟の問いを、ブレーズは肯定した。 「よく分かったね。その通りさ。残念ながら、仲間と意見が合わなくて退団したけどね。ボクは夢を追い過ぎなんだって」  さすがにこれは悲しい記憶なのだろう。能天気な依頼人だが、喋っているうちにいくらか顔が曇った。  彼の動作が妙に大げさなのは、過去の旅芸人時代の癖のようなものか。アルメルはなんとなく、納得した。 「楽器は苦手だったけど、芝居は好きだったよ。仮面をつけて、きらきらした派手な服を着るのが面白かった。集まってきた観客を笑わせるのは楽しかったな……」  ブレーズが、懐かしそうに目を細めて昔のことを語った後。  彼は、街道の脇に何を見つけたのか。 「……今のは」 「ブレーズ? どうしたの?」  ブレーズは東への歩みを止め、突然道を逸れて、道脇のウルカの果樹園の間に入って走って行ってしまった。何かに憑依されたかのように。  思いのほか足が速い。彼の青色の外套は、木々に紛れて遠ざかっていく。 「……」  あまりに突飛な行動に、姉弟は呆然として頭が働かなかったが、しばしの後、 「まったくもう、あの依頼人、急に何なのよ!」  アルメルは大声で毒づき、歯噛みした。 「ユリス、追うわよ」 「分かってる!」  ブレーズが何を見たのかは知らない。だが護衛としては、あの奇人について行くしかない。  これは仕事だ。  アルメルとユリスは、果樹園の土につけられた、ブレーズの足跡を追った。   (2)  何の目的があって街道の脇の果樹園を突っ走るのか。  最初はそう思ったが、考えても無意味かもしれないので頭の中から捨てた。  あの依頼人なら、「走ることが目的なのさ」とでも言いそうな気がしたからだ。  収穫前の、白い実をつけたウルカの果樹の間を、姉弟はブレーズの残した足跡を追って走った。途中、腐って木から落ちたウルカの実を何度も踏んだが、構っていられない。  果樹園を抜けて農道に出たところで、足跡を見失った。土が固くて、残っていないのだ。  仕方なく、アルメルは農道を北に、ユリスは南に向かい、手分けして探すことになった。見つからなかったときは、日没までにここに帰ってくる約束をして。  ウルカの果樹と、雑木の間の農道を走りながら、アルメルはくすんだ青い外套――ブレーズの着ているものだ――は見当たらないかと探した。  そうして、水の匂いに気がついた。  近くに池でもあるのだろうか? アルメルが足を止め、周囲を見回したとき。  木々の奥、小さな池の側で、青い外套が目に入った。  ……無駄な手間をかけさせる依頼人だ。  いらいらする気持ちを抑えて近寄ると、ブレーズは池の水面を見ていた。   水を飲もうとする様子でもないのに、池に大きく身を乗り出して。  入水自殺か?  アルメルが慌てて駆け寄り、彼の背中から外套を引っ張ると、 「うわあ!」  ブレーズは大きな声を上げてよろめき、そのまま二人揃って池のふちに倒れ込んだ。   「アルメル君かい? な、何をするんだよ」  起き上がると、泥のついた顔をいっそう貧相に歪めて、ブレーズは文句を言った。 「それは私の台詞だわ! いきなり街道から抜けて、ここで何を始めたの? 池に身投げするつもりだったの?」  報酬をもらっていないのに身投げされてたまるか。酒代が消える。  睨みつけるアルメルの剣幕に、ブレーズが縮こまった。 「身投げなんて……ボクは、風の精に誘われて、この池に来ただけさ。池には綺麗なお嬢さんがいて、ボクを招いてくれてたのに」  綺麗なお嬢さん?  アルメルが池の周りを見ても、自分たち二人の他には誰もいない。木々の向こうに誰かが隠れている様子もない。  ブレーズ本人の顔が池の水面に映ったのを、女と見間違えでもしたのか? 「今、そのお嬢さんはいるの?」 「ううん。アルメル君が来たから、怖くて逃げちゃったのかもね」 「……」  アルメルは、どっと疲労感に襲われた。   確かブレーズの旅芸人時代の仲間は、彼を「夢見がち」と評して別れたのだったか。今しがた彼をこの池まで招いたものも、きっと幻想の類だろう。 「もういいわ、無事なら」  疲れた笑いを浮かべて、アルメルは息を吐き出した。  アルメルはブレーズを連れて、先ほどユリスと別れたところまで戻ってきた。  ブレーズが「ああ、池の中のお嬢さんが」と恨めしげなことを呟いていたが、アルメルは完全に聞く耳を持たなかった。  さて、ユリスはどこまで行ったのだろう。  今は午後。曇った空では太陽がどこか分からないが、だいぶ夕に近づいているはずだ。薄暗い空が少しずつ暗くなっている。  空を見上げていたアルメルは舌打ちをした。  こんな寄り道がなければ、夜になる前に次の町に着けるはずだったのに。  そんな時、がちゃがちゃと、金属の鳴る音がわずかに耳に入ってきた。  アルメルはブレーズの外套の裾を引っ掴んで、木の陰に隠れるよう示した。 「アルメル君、何?」 「静かに」  小声でやりとりし、二人は農道脇の木の後ろに隠れた。面倒な予感がする。  農道を歩いて来たのは、武装した数人の男たちだった。兜はないが、あちこちに戦傷のある金属の鎧を身に着け、剣を下げていた。  傭兵くずれの野盗だろうと、アルメルは踏んだ。 「これで少しの間は食えるな」 「じじいどもめ、さっさと食い物を寄越さないから死ぬんだ」 「俺たちが来なくても、どうせ冬の寒さにやられて死んだだろうよ。俺たちがもらってやるほうが、食い物も金も活用できるってもんだ」  連中から下卑た笑いが湧いた。抱えている布袋は、近くの家々から無理矢理奪い取ってきた食糧らしい。  隣のブレーズが、おどおどしながら聞き耳を立てていた。  アルメルにとっても、連中は気分のいいものではない。  けれど弟がいない今、正義を気取って戦いを挑むのは負担が大きすぎる。  それに、依頼とも関係がない。このまま通り過ぎてくれればそれで――  ぺきっ。  ……依頼人が、音と一緒に、握っていた木の枝を折った。  当然、野盗連中は音に気づき、二人が隠れていた木を一斉に囲んだ。数は、四人。  不注意なブレーズに腹は立ったが、しかし相手は依頼人だ。非難しても仕方がない。  うろたえる彼を、アルメルは「堂々と出なさい」と、つついた。 「何だ、お前らは」 「ただの旅人。見過ごしてもらえない?」  こちらをじろじろ見てくる野盗たちに、アルメルは毅然と言った。 「旅人だぁ? 街道ならともかく、こんなところに旅人が入り込んでくるかよ」  四人の野盗は、にやにやと笑った。  これは財布をごっそり奪われるか。いや……金で済めばましなほうか。  見逃してもらう相談をしようと、アルメルが口を動かしかけたとき。野盗の一人が、こちらを舐めるように見た。 「お前、女だろ」 「それが?」 「怖えなあ。睨むなよ。そっちのがたがた震えてる男なんか放っておいて、俺たちと仲よくしようや。それなら命くらいは助けてやってもいい」 「そうそう。仲よく、楽しもうや」  野盗たちの下品な哄笑が起こった。  さすがに、その意味で野盗たちに構う気はない。相談はやめた。  相手は全員鎧姿。対して、この依頼人は足は速かったはずだ。  アルメルはブレーズの外套を掴むと、小声でささやいた。 「……ブレーズ。私が隙を作るから、全力で南に逃げて」 「で、でもアルメル君が」 「いいから。もしユリスに会ったら、呼んできて」  依頼人がここにいたところで、役に立たないどころか足手まといなだけだ。  アルメルに気圧されたのか、びくびくしながらも、ブレーズは頷いた。  ……さて。  一歩進み出て、相手をもう一度確認する。 「仲よく? 私と? そうね」  アルメルは、野盗たちに向けて、挑発するように口の端を吊り上げた。 「でも私は、あんたたちに“刺される”気はないのよね。だからあんたたちのほうが、私に刺されて頂戴」  アルメルは外套の下から剣を抜いた。片腕で柄を持って腕を伸ばし、剣の刃を軽く揺らす。  野盗の一人が、ひゅう、と口笛を吹いた。抱えていた布袋を置いて、向こうも全員が剣を構える。にやにや笑いだけは、そのままに。  女だからと舐めてかかってくるなら多少は楽になるが、そうも都合よくいかないだろう。  頭の中で、これからすべきことを整理した。  一つ。力の弱さは動きで補う。  一つ。狙う個所を間違わない。  一つ。出来る限り一対一に持ち込む。  アルメルの黒髪の下で、緑の瞳が好戦の輝きを見せた。  ――いける、か。   アルメルは剣を構え直し、土を蹴った。   (3)    中段の構えから正面に突っ込んだアルメルの剣を、黒髪の野盗は難なく剣で受けた。  野盗は、にやにやと気色の悪い笑いを浮かべて、アルメルの顔を覗き込んできた。彼は剣同士の接触状態から、そのまま力任せに押しつぶしてしまおうとするが、  ……アルメルはすっと自分の体と剣をずらし、柄から片手を放して、相手の頬を平手打ちした。   ぱん、と乾いた音が響く。   「っ!?」  平手打ちは肉体的な痛手にはならないが、動揺を誘いやすい利点がある。  野盗は剣持ちが平手打ちするのは完全に予想外だったらしい。体の動きが止まる。他の野盗にも、一瞬、驚きが走った。  その隙を、アルメルは見逃さなかった。  平手打ちを食らった野盗だけでなく、その場にいた敵全員が判断が鈍った刹那。 「走って!」  アルメルの一声を受けて、ブレーズは農道を一目散に南へ駆けていく。  同時に、アルメルは対峙していた野盗の脇を抜けて、膝の裏を蹴る。  鎧の重さでそのまま倒れ込む野盗から離れるように、アルメルは走った。  自分が蹴飛ばした野盗は仲間が起こしたらしい。こちらを追う野盗は三人。一人は、ブレーズを追って農道を南下するようだ。  ブレーズのほうは、彼が逃げ切ってくれることを祈るしかない。  アルメルが走り、入り込んだ場所は雑木の林だった。木の多くは常緑樹で、晩秋にもかかわらず葉を茂らせている。  アルメルは大きな枯れ木の後ろに一旦身を潜め、息を整えることにした。  動いた分の汗はかいていた。日が陰り、寒くなってきたので、これでは汗と両方で体が冷えてしまう。  顔の汗をぬぐって、アルメルは唇を噛んだ。  ここまで走ってはきたが、しかし、まだ何も決着はついていない。  ――わずかに金属の音が聞こえたかと思うと、男の声も聞こえてきた。  あの女、ふざけやがって、という悪態だ。  手分けして追うことにしたのか、一人のようだ。仲間も近くにいるかもしれないから、まったく油断はできないが。  自分の剣を手に、アルメルは堂々と野盗のほうに近づいた。彼の褐色の髪は、木の葉をくっつけていた。  相手も、枯れ木の陰から出てきたアルメルに気がついたらしい。抜身の剣を手にして、憎々しげにこちらを見た。先程のにやにや笑いは消えていた。 「あの銀髪野郎は、お前を置いて逃げてったな。あんな薄情な奴に肩入れするこたぁねえだろ」  殺してから犯してやろうと考えているのか、野盗の目は、殺意で剣の刃に似たぎらつきを宿している。 「そうもいかないのよね」  けれどまったく臆さずに、アルメルはしれっと答えた。  あれは依頼人だ。仕事を請け負った以上は、こちらも働く必要がある。  アルメルは周囲の気配を探った。幸い、他二人が近くに潜んでいることはなさそうだ。    野盗は剣を振りかぶり、アルメルに斬りかかった。  アルメルは攻撃を剣で受けた。金属同士のぶつかる音と共に。  そのまま、一合、一合と、何度も互いが斬撃をぶつけ、刃鳴りが響く。  剣同士の接触状態で、二人がじわじわと後退し――  相手が足元の木の根に気を取られたその一瞬。  アルメルは素早く剣を動かし、刃の中央やや上を持った。相手の鎧の継ぎ目になる、右腋の下を突く。  聞き苦しい悲鳴を上げて、野盗は剣を取り落とした。その剣を蹴って遠ざけると、アルメルは肉から剣を引き抜いて、今度は喉を突いた。  今の一戦で、自分の居場所は他の野盗に伝わったことだろう。  息絶えた野盗の死体から離れ、アルメルはさらに林の奥に走った。  ――まずは一人。あと、二人。     しっとり露で濡れた岩陰で剣を握っていると、がさがさと木の枝を払って、こちらに近づいてくる者がいる。  ……右側からだ。  アルメルが振り向くその瞬間、野盗は姿を現すと同時に斬りかかってきた。  相手は先程アルメルが平手打ちをした、黒髪の野盗。  敵の繰り出した斬撃をかわし、足を滑らせそうになるのをなんとか抑え、アルメルは頭を狙って斬りかかった。  しかし、相手の剣がそれを防ぐ。  もう一度斬撃を入れたいが、当然ながら相手はそれをさせるほど鈍くはない。  野盗は剣同士の接触のまま、ずるずると、アルメルの腕を下に押し下げてくる。   「手が震えてるぜ」 「そう?」  アルメルは余裕のあるふりをして言った。  悔しいが事実だ。相手の攻撃を受け続けるには、この腕では非力だ。 「ちっせえ体の割に気が強えな。お前、俺の仲間を殺したんだろ? 仕返しにいたぶってやったらさぞ面白いだろうな」  刃の向こうから、相手の男の野卑な視線がアルメルに注がれる。  この男は、意外と堅実に攻めて来ていて隙がない。ついさっき恥をかいたので、その分警戒を強くしているようだった。  体力勝負になるようでは、自分は明らかに分が悪い。  剣を握る手にぐっと力を入れたそのとき、近くで男の悲鳴が上がった。 「この声……」  野盗は、声の主を知っているようだった。おそらくは残る一人だろう。  何があったのかは分からないが、一時でも気が逸れたのは好機だ。見逃す理由はない。  アルメルは野盗の顔の下から、真っ直ぐに喉を突いた。   剣を抜くと、相手の体は土と草の上に倒れ込んだが、まだ動いていた。  とどめがいると判断して、アルメルは剣を上下逆――刃のほうを持って振りかぶり、そして柄頭で野盗の頭を強打した。  ――これで二人。残るは、一人か、ゼロか。  顔にかかった血をぬぐい、悲鳴の聞こえてきたほうに向かったアルメルは、 「ユリス!」  農道に近い場所で、木々の間に弟の顔を見つけ、ほっとした。   弟の足下には、もう動くことのない禿頭の野盗が転がっていた。  ユリスのほうも、アルメルを見て安心したらしい。疲れでぐったりしていた弟の顔は、すぐに明るくなった。 「ブレーズが鎧の男を連れてきたから相手したんだけど、姉さんは大丈夫だった?」  アルメルは頷いた。彼の後ろに、未だにびくびく怯えるブレーズの姿が見える。 「事情は大体ブレーズから聞いてる。姉さんがこっちの林に入って行ったって言うから、林を見てたら鎧の男がまた出て来てさ。やりあってたらこうなった」  弟はさらっと言った。 「ありがとう、助かったわ。怪我はない?」 「僕も平気。それよりもさ」  喋り途中で、ユリスは一度空を見上げた。つられて、アルメルも空を見る。  昼間のうちから雲に覆われていた空は、もうかなり暗くなっていた。木々に覆われているこの一帯は、なおのこと闇に近い。 「今から宿のある町まで行くのは難しいね。野宿しかないよ」  ブレーズを横目でちらと見て、不満もあらわに、弟は言った。  夜の闇の中、木々の間で、ぱちぱちと焚火が燃える。  外套にくるまったアルメルとブレーズは、焚火の前で座っていた。  ユリスは仮眠中で、外套を被ってアルメルの横に転がっている。そろそろ弟と見張りの交代の時間だが、アルメルは無言で火を睨みつけていた。  楽な依頼だと思ったのが、そもそもの間違いだったのか。  事前の計画の通りならば、町に寄りつつ街道を北東に進めばいいだけの旅だ。途中の町で宿を取りながら進めば、さほど難しい旅ではない。  それが依頼人の無茶のせいで、しなくてもいい戦闘をし、あげく野宿だ。  ……手当をいくら上乗せして報酬を請求してやろうか。  そんなことをねちねち考えながら、アルメルは焚火を見ていたが、 「さっきまで暴れてたのが信じられないくらい大人しいね、彼」  寝ているユリスを差して、依頼人は言った。  火に照らされて微笑む彼は、こちらの心の内など気づいてもいないようだった。  今日の弟の戦いぶりがどうであったかは、アルメルには想像するしかない。ブレーズの口ぶりからすると、まあまあだったのだろう。  アルメルは、にこりと笑った。 「弟は私の知る限り、一番信用のおける剣士よ」  ブレーズは少し驚いたようだった。 「弟のことだとそんな風に笑うんだね。普段のアルメル君は、きつい表情が多いからさ」 「そう?」 「そうだよ」  商売柄、険しい顔になることは多いだろうという自覚はある。  客相手にそれだと都合が悪いので、愛想よくと思っているのだが……ブレーズに指摘されるくらいだから、思うように愛想よくはなっていないのかもしれない。  アルメルは少し、恥ずかしくなった。 「好きなんだね、ユリス君のこと」  ブレーズはからかうわけでなく、至極真面目に言った。 「姉弟だもの。おかしくないでしょ」 「そうじゃないよ。女が男を見る目なのさ」  ブレーズが真面目な顔のまま答えた。アルメルは本格的に恥ずかしくなった。  多分、顔が赤くなっているだろう。気づかれたくなくて、アルメルは顔をそらした。  それでもブレーズは気にせず話を続ける。どうして恥ずかしがるのさ? とでも言い出しそうなほど、愚直に。 「近親で結ばれる話なんて、古代の演劇の頃からいくらでもあるさ。南の海の向こうにある砂と石の国では、大昔、同じ両親を持つ兄弟姉妹で結婚することは普通にあったそうだよ。今は無理だろうけど」 「よく知ってるのね」  一度そらした顔をまたブレーズに向けると、彼は得意げににんまりする。  「旅芸人の頃の座長が詳しかったから、聞かせてもらってたのさ。それに恋の話って、お客の受けがよくてね。いろいろ演じたよ。  ……お客の受けがいいのはどういうわけだろうね。たくさん恋愛の芝居を見たって、自分の恋愛には役に立たないだろうにさ」  ブレーズも眠たくなってきたのか、それきり彼は、顔を伏せて口を閉ざした。  以降、見張りの交代の時間まで、アルメルの耳に入ったのは、ぱちぱちと枯れ枝の燃える音だけだった。  交代のとき。起きてきたユリスは、なんだか照れ臭そうだった。  途中で目が覚めて、自分とブレーズの話を聞いていたんじゃないだろうか。そんな気がしたが、まあいい。今は疲れた体を休めよう。  アルメルはそう思って、体を横たえた。 (4)    翌日。  姉弟は、前よりは聞き分けのよくなったブレーズと共に、旅を再開した。  ブレーズは、街道の脇の花だの木だの小川だのをうっとり眺めては、詩か何かを口ずさむが、そんな時にアルメルやユリスが外套を引っ張ると、大人しく街道に戻って歩くようになった。  さすがに少しは懲りたらしい。  それから後は、幸運にも特に危ない目には遭わなかった。  途中の町で宿を取りながら、姉弟と依頼人は、街道を東に進んだ。    港湾都市トランドーニュは、テルブ川の河口にある都市だ。街道の北東の果てであり、街道の始まりの街になる。  到着は夕方だった。  三人は石造りの橋を渡り、街の入り口の大きな門を抜ける。  門の向こうには、雪の多い地方らしく、急な勾配のついた屋根の住宅が並んでいた。東の国境に近いので、東の国に似た建築が多いのもこの街の特徴だ。柱と漆喰の組合せを目立たせた、独特の木組みの壁模様が美しい。  同じ港町でもウォーレンとは町の規模が違う。少し道を歩いたくらいでは、建物に隠れてしまって海は見えなかった。入り口の門をくぐる前、街の外を歩いていたときのほうが、灰色の海が見えていたくらいだ。 「ここでいいのよね、ブレーズ」  門から街の中央に向かって少し歩き、広場の池の前で、アルメルは、依頼人に尋ねた。 「うん。今までありがとう。キミたちのこと、ボクは生涯忘れないよ」  ブレーズは満面の笑顔になると、先にアルメルの手を、次にユリスの手を握って、ぶんぶん振った。  大げさだが、まあ、こういう性格なのだろう。苦笑しつつ、アルメルは言う。 「ところで、報酬をいただけるかしら」 「ああ、そうだったね」  ごそごそと懐をまさぐって、ブレーズは布の袋をこちらに寄越した。  金額を確認した後、野盗の時に苦労したんだけど、と額を上乗せする狙いで当てこすってみたが、けろっとしたブレーズには効果はなかった。  もっと直接に請求してやろうかと思ったが、あまりに本人が無邪気な顔をしているので、なんだか調子が狂う。アルメルは、何度か言いかけたものの、結局諦めることにした。 「じゃあお別れね。ねえユリス、お酒でも飲んで温まりましょ」  北の街に吹く風は寒い。日も暮れてきたから、さっさと建物の中に入ってしまいたい。  そう思ったアルメルが隣の弟に声をかけると、 「アルメル君たちはお酒を飲みに行くのかい?」  ふらりと、ブレーズが聞いてきた。 「じゃあ、ボクも一緒に行っていい? 物語は、お酒から始まるんだ」 「物語……そうなの?」  ブレーズが相変わらずよく分からないことを言うが、まあ、害はないだろう。  強く断る理由もないので、姉弟は、依頼人と共に料理屋を探した。  広場のそばにあった、小さな料理屋に入ったとき。 「こんばんは……あれ?」  ブレーズが、驚いて声を上げた。 「ブレーズ?」  店内で料理をつついていた十何人かの団体も、ブレーズの顔を見て、同じように驚く。 「……ブレーズ、知り合い?」 「うん。昔の旅芸人時代の仲間さ」  ブレーズは答えた。  あれはかつて在籍していた一座の面々らしい。この街で落ち合う約束などなく、全くの偶然だったのだろう。  今の反応からすると、仲間とはそこまで不仲ではなかったようだ。 「あの、アルメル君、ユリス君」  ブレーズが、おずおずと姉弟の名を口にした。  何を言いたいのかなんとなく読めたので、アルメルとユリスは彼を安心させるように告げた。 「向こうと話がしたいなら、行っていいわよ」 「僕たち、もう仕事は終わった後だしね。元気でね」  姉弟は、依頼人にやさしく笑いかける。  ブレーズは、ありがとう、と大仰な礼をして、旅芸人たちの席に向かった。  店の隅の席についたアルメルとユリスは、魚の蒸し焼きを頬張りながら、酒で盛り上がっている旅芸人たちの席を遠巻きながらに見ていた。   ブレーズの長い銀髪はよく目立つ。彼は今、大柄な男に酒を飲まされていた。 「ブレーズ、旅芸人に戻る気なのかな。今夜喋るだけかな」 「いいんじゃないかしら。どっちでも」    北へ向かい、北の町で暖を取り、物語が生まれる――確か彼は、そう言っていた。  彼が望む物語が生まれるかは分からないが。  いずれにせよ、自分たちの仕事はこれで終わりだ。  アルメルはカップを手にすると、酒をぐいと飲み干した。  *  ――姉弟とは少し離れた席。  酒のカップを手に、かつての仲間と話すブレーズは、新しい劇の概要を考えたから聞いて欲しいと、話を切り出した。 「まあ、聞くだけなら聞いてもいいぜ」 「勿体ぶってないでさっさと言えよ」  了承をもらうと、ブレーズはアルメルとユリスの席を少しの間だけ見た。  あの姉弟の黒い髪と緑の瞳は、ちょうど猫のようだと思っていたのだ。  人差し指で鼻をこすって、ブレーズは周囲に語り始める。 「じゃあ話すよ。猫の話なんだ。仲のいい黒猫のきょうだいが、二匹で戦ってたくましく生きていく話――」  (姉と弟と旅人・了)   ■9 姉と弟と弟子 (1) 「ただいま。姉さん、本当に寒いの苦手だよね」  夕方、宿に戻ってきた弟のユリスが、ペルの実を片手に言った。  都――王都シストゥリカの下町の宿の一室で、アルメルは固いベッドに横になっていた。  熱があるのだ。風邪を引いたらしい。 「前に都に来た時も、姉さんは風邪引いてなかったっけ」 「そうだったわね」  頭がぼうっとする中、アルメルは上半身を起こす。喋る言葉も鼻声になっていた。姉の様子に、ユリスは心配げに顔をしかめるが、アルメルだって好きで病気を拾っているわけではない。  冬は、どうも体に合わないのだ。   「それは?」  顎でしゃくって弟に尋ねると、 「道で、小さい子が売ってたのを買ってきた」  彼は部屋の椅子に腰かけて、こぶし大のペルの実の皮を、ナイフでむき始めた。  この近くの通りは、かごで果物を売る貧しい少女をよく見る。窓を閉めているので、今は外は見えないが、多分この宿に来た時のように、果物や花売りの少女が路上で商売をしているのだろう。  皮むきに苦戦しながら、ユリスは冗談めかして笑った。 「いっそ裸で生活できるくらい、あったかいところに住もうか?」 「……ロロの実家はどうするのよ」  例えば、経典に出てくる楽園のような土地なら、年中裸で過ごせるほど暖かいだろう。  けれどもこの国にそんな場所はない。温暖な南部でさえ、衣服無しは無理だ。  弟がこんなことを言うのは、自分を気遣ってか、それとも単に年中自分の裸を眺めていたいからなのか。あるいは、その両方か。  アルメルが、ぼんやりとした頭で少し思案していると、 「はい、これ」  皮をむかれ、果肉の塊になったペルの実を差し出された。  弟は、あまりこの手のことは得意ではない。今しがたまで丸かったペルの実は、ごつごつした形状に姿を変え、ところどころに不恰好なへこみができていた。  まあ、見てくれが悪かろうと味には影響しないので、アルメルは気にしないが。 「ありがと」  礼を言って実を受けとり、かぶりつくと、甘酸っぱい味が口の中に広がる。噛むたびにしみ出す果汁が、熱のある体にはありがたかった。  水分が欲しくても、酒では吐きそうになってしまう。  しゃくしゃくとペルの実をかじっていると、ユリスが聞いてきた。 「姉さん、汗かいてない? 拭いたほうがいいよ」  確かに、体がべたついている。アルメルがベッドを下りて、かじっていたペルの実を置き、部屋の隅の水桶に手を出そうとしたとき。  「僕が拭こうか?」 「……自分でやるわよ」  助平め。さすがにこの弟の申し出は突っぱねて、アルメルは別のことを聞いた。 「それよりも、練習は上手くいっているかしら」  *  先月のことだ。  港湾都市トランドーニュで元旅芸人の依頼を終えた、さらにその後。  何か帰り道に請け負える仕事でもないかと、斡旋所の戸を開けたとき。 「あれ、もしかしてテランスさん?」  窓口で受付人と話をしていたのが、見覚えのある大柄な男性剣士だった。  テランスは、アルメルとユリスの両親がとっていた弟子の一人だ。両親が行方不明になった後は、叔母に師事して剣を学んでいた。年は今、三十手前くらいだったはず。  叔母の元を出た後は、都で仕事をするようになったと聞いていたのだが、その彼がトランドーニュの斡旋所に何用だろうか。  テランスは、姉弟を見て、ばつが悪そうに頬を掻いた。短く刈った黒髪と、筋肉の付いたいかつい体は昔と変わらない。けれども、顔には妙な疲れが滲んでいる。 「ありゃ、もしかしてアルメルお嬢さんとユリス坊ちゃんですか。久しぶりです」 「こちらこそ、久しぶり」  無難な挨拶を交わした後、 「テランスさん、トランドーニュには都の仕事で来たの?」  弟が、他意なく聞いた。  ……途端、テランスの表情が曇ったので、姉弟はどきりとして顔を見合わせた。どうやら、あまりよくない状況らしい。  気を悪くしたならごめんなさい――アルメルがそう言いかけたとき。 「それなんですがね……ああ、もしよかったらお嬢さんと坊ちゃん、ここで会ったのも何かの縁だ。ちょっと愚痴に付き合ってもらっていいですかね。受付の人すいません、お邪魔しました!」  テランスはかなり強引に、姉弟を斡旋所の外に押し出した。  姉弟は、案内されるままに料理屋に連れていかれた。  店員が席に持って来た酒と、丸ごと揚げた魚三匹を交互に見た後、テランスは疲れたため息を深々と吐き出した。  この様子は、まあ、あれだ。負の方向だ。 「……テランスさん、仕事が上手くいってないの?」 「ええ。失業しました」  弟に簡潔に返事をして、テランスは店の机に突っ伏した。 「テランスさんは、都の役人の家で雇ってもらったって聞いてたわ」  アルメルが、叔母に聞いた内容を口にした。  純然たる平民では都の役人にはなれないから、勤め先は相応にいい家だ。収入は雇い主次第だが、弟子時代の彼の腕を知る立場からすれば、そんなに悪い扱いを受けるとは思えない。 「それがですね……」  テランスは、顔を上げても机に肘を載せたまま、酒のカップを指でつついた。 「この間、勤め先の屋敷の主人が、役人同士で酒の席の余興を企画したんですよ。自分のとこで抱えてる剣士の腕比べです。それで、まあ、代表に俺が選ばれて」  うなだれて、テランスは言った。 「……残念ながら負けたんです」  カップの酒を口に流し入れると、彼は続けた。 「俺はそんなのお遊びだと思っていたんですが、主人が意外と本気だったんですよ。俺が負けたことが気に入らなくて、次の日いきなりクビ」  それは気の毒なことだ。テランスが気落ちするのも分かる。 「今は、トランドーニュの港の日雇い仕事で食いつないでます。東の国境に行って、傭兵になることも考えてるくらいですよ」 「雇い主は、頭に血が上ってただけじゃないかな。もう一回、雇ってもらえるように頼んだらどう?」  ユリスが酒を一口飲んでから言うが、 「屋敷の主人は頑固でしてね。解雇はあんまりだって、同僚も一緒に頼んでくれたんですが、首を縦には振りませんでしたよ」  テランスは軽く頭を押さえた。 「テランスさんは、まだ元の屋敷で仕事したいのかしら」  アルメルが尋ねると、テランスは頷いた。 「そりゃあ、もちろん。もう一度働けるなら」  そうか。それなら少し、両親の弟子のためにお節介してもいいだろう。 テランスは間違いなくうちの流派の人間だし、彼の腕前は子供のころから知っている。自分たちが都で顔が利くとは思っていないが、何もしないで放っておくよりはいい。  アルメルは弟の顔を見た。 「ユリス。私たちも都に行って、頼んでみましょう」 「そうだね。テランスさんに勝った相手も気になるし」  姉弟の会話に、テランスは少し困惑したようだった。 「いや、これは俺の問題です。気持ちは嬉しいですが、お嬢さんや坊ちゃんに来てもらったところで、話が上手く進むかどうか」  テランスはあまり気が進まない様子だ。  それでも、揚げた魚をかじりながら、アルメルとユリスは口々に言った。 「やるだけやってみればいいわよ」 「都は帰り道の途中だしね」  さらりとした姉弟に、テランスは面倒をかけます、と謝意を示した。  アルメルが風邪を引いたのは、その後、トランドーニュから都へ移動する最中のことだ。  熱でふらふらするので、都に着いたら宿に飛び込むのが精一杯だった。アルメルは、部屋に入るとそのままベッドに倒れ込んだ。  アルメルの不調を見て、弟は出掛けるのをぐずったが、姉弟揃って宿に引っ込んでいては何のために都まで来たのか分からない。  幾分不安ながらも、ユリスとテランスの二人で役人の屋敷に向かわせて、アルメルは一人、宿で体を休めていたのだが――    宿に帰ってきた二人から聞いたのは、こんな話だった。  屋敷の主人曰く。 「雇って欲しければ、また試合を企画するから、今度こそ勝て」    ……実に、分かりやすい返答。 「お屋敷の主人は、負けず嫌いなのかしら」  咳き込みながら、アルメルはテランスに問うた。 「まあ、そんなところです」  負けが死を意味する実戦の場合はともかく、試合なら相手が強ければ仕方ないと、割り切ってしまってもいいはずだ。ましてや酒の席の余興で、そんなに熱くなることもないと思うのだが。  今度は弟が疑問を口にした。 「もしかして、相手の家と因縁でもあるの?」 「俺も詳しくは知りませんが、どうもそんな雰囲気で」 「……」  役人同士の私怨ということか。お偉いさんの張り合いは面倒だ。  テランスはユリスのほうを向き、申し訳なさそうに詫びた。 「坊ちゃん、すみません。せっかく同行してもらったのに」 「別にいいよ。それより、練習に付き合うから試合を観戦させて」 「え、でも坊ちゃん」  戸惑うテランスの相手は一旦置いて、ユリスは寝ているアルメルに話しかけた。 「姉さん、それまで都にいてもいい? 姉さんが調子悪いんじゃ帰りの旅なんてできないから、まだここで寝てて欲しいし」  ああそうですね、とテランスが納得する。  提案する弟がどことなく楽しそうなのは、強い相手が見られそうだからだろう。気持ちは分かる。風邪さえ治れば自分もその試合を見に行きたい。 「構わないわ。体がよくなるまでは、私も動けないから」  そんなわけで、姉弟はしばらく、都に滞在することにした。  アルメルが寝ている間、ユリスはテランスの練習に付き合うことになった。  * 「うん、悪くないと思うよ。見る人が多いと緊張するって言ってたから、そっちのほうが心配」  部屋の隅で服を脱ぎ、水を絞った布で汗を拭き始めたアルメルに、ユリスは答えた。  悪くないというのは、テランスの調子だろう。自分の裸ではなく。 「それならいいわ」  二、三回咳をして、アルメルはまた体を拭き始めた。  頭がぼうっとしてふらふらするので、動作はゆっくりだ。こちらを見るユリスがじれったそうだが、自分でやるといった手前、弟に頼る気はない。 「気になるのは相手だね。どんな人かは知らないけど。それにしても冷えるなあ」  ユリスが木窓のほうを見た。閉めているから外の様子は知りえないが、天候が気になるのだろう。  アルメルも、今日は一段と寒いと感じていた。  ……この寒さは、雪になるかもしれない。   (2)  次の日、都には雪が舞い始めた。  積もるほどではないが、路面や屋根は雪化粧で白くなっているらしい。  らしいというのは、アルメルは風邪で寝ていて外を出歩けないから、弟やテランスから聞くことでしか外の情報を得られないためだ。  熱が下がらないので、今日もアルメルは宿のベッドに横になっていた。  体を起こしたのは、夕方、弟が帰ってきたときだ。彼は、液体の入った丸い器を持っていた。 「練習終わってから薬師のところに行ってきたよ。はい、薬」 「……薬? ありがと」  器の中の緑色の液体は、粉薬を水で溶いたものだそうだ。   アルメルはユリスから器を受け取って、中の液体をさじで口に入れ――  げほげほと、むせ返った。   「まずい……すごくまずいわよ、これ」  アルメルは顔を引きつらせた。  匂いはすりおろした生野菜のように青臭い。味は苦く、酸味があり、そして辛い。舌がぴりぴりする。とにかく劣悪としか言いようのない味の液体だった。  薬だという前置きがなければ吐き出している。  「でも、薬ってそういうものじゃないかな」 「いくら薬でも、こんなまずいもの飲めないわよ」  鼻声で言うと、アルメルは器をユリスに突っ返した。辛さのせいか、目に涙まで浮かんできた。これ以上飲むのは相当な辛抱がいる。  一口で涙目になった姉に、ユリスは困ったように苦笑した。 「屋敷に出入りしてる薬師が、これが効くって言ってたんだけどね」  器を受け取って、彼は残念がる。 「屋敷って、テランスさんの仕事先の?」 「そう。屋敷の使用人に薬師の住所を聞いて、買いに行ったんだけど……肝心の姉さんが飲めないなら仕方ないか」 「……」  弟が自分に優しいのは普段からだが、風邪のせいか、いつにも増して甲斐甲斐しい。それに、いい家に出入りする薬師なら、処方する薬の代金も安くないはずだ。  アルメルは唇を舐めた。唇についていた薬は、わずかでも苦く、すっぱく、辛い。  ……それでも、弟が自分のために持ってきてくれたものだ。だったら。 「ユリス。やっぱりもらうわ」  アルメルは弟に告げた。  薬をどうしようか迷っていた弟は、姉の心変わりに驚いたようだ。 「飲むの? こんなまずいの飲めないって言ったじゃないか」 「気が変わったの。頂戴」  これは飲まないといけないものだ。  器を受け取って、アルメルは渋い顔でさじを口に運ぶ。味は非常に悪いが、それでも飲み干す覚悟で、繰り返しさじを動かした。  そんなアルメルを、ユリスは何も言わずに見つめていた。  薬を嫌々でも毎日飲んだ甲斐があったのか、試合の日の朝には、アルメルの熱は下がっていた。  アルメルの熱は下がったのだが。 「姉さん、テランスさんに風邪を移したの?」 「……そうなるのかしらね」  宿の廊下で、アルメルとユリスは頭を抱えた。  テランスが代わりに熱を出してしまったのだ。  彼は姉弟の隣の部屋を借りていたし、ときどき姉弟の部屋に見舞いにも来てくれていたから、移ってもおかしくはない。  しかし困った。今日の試合は、テランスの戦いのはずだ。 「すみません坊ちゃん、結局こんなことに……」  がたがたと体を震わせて、鼻声のテランスが情けない声を出した。体格のいい男が苦しそうに咳き込む姿は、何とも言い難い。 「参ったね」 「テランスさん、部屋で寝てたほうがいいわ。でも……これじゃ不戦敗になるわね」 「そうは言うけどさ、テランスさんが屋敷に行ったところで、することがないよ」  ユリスが苦々しい顔を作った。  それに関しては、アルメルも反論ができない。  この様子では、テランスはろくに戦えまい。  雇い主に病気だからと説明したところで、体調管理の出来ない剣士などいらないと言われてしまえばそれまでだ。かなり分の悪い交渉になるのは想像がつく。  歯噛みする姉弟に、テランスがごほごほと咳きながら告げた。 「お嬢さん、坊ちゃん。俺は、結局クビになるとしても、礼儀だけは通したいです。屋敷の主人だけじゃなくて、戦う相手にも」  ユリスとアルメルは顔を見合わせた。  それならば、屋敷まで連れていってあげよう。姉弟はそう決めた。  都――王都シストゥリカは、テルブ川の下流域にある。姉弟の家のあるロロの町とは、比べ物にならない大都市だ。  街のあちこちに川から水を引いた水路が走るので、当然橋も多い。  橋を一つ越えるたびに、行きかう人の装束や、建物の格が変わっていく。  庶民の集まる下町から、王宮のほうに向かって、姉弟とテランスは中央通りを歩いた。  通り過ぎる人々が、咳き込むのをよく見る。寒くなったせいか、風邪が流行しているようだ。  この冬に風邪をこじらせて命を落とす貧民は少なくないだろうと、アルメルは思った。  目的の役人の屋敷は、役人街の一角にあった。黄色い屋根と、白い石の壁で出来た大きな家だ。屋根と塀と庭木は、雪でうっすらと白くなっていた。広い庭には人が集まっているようで、喋り声が漏れてくる。 「待ちわびたぞテランス。先方も、もうお前の到着を待っていてな……どうした」  玄関で仁王立ちで待っていた初老の男は、テランスから事情を聞くと、途端に怒り出した。握っていた木の杖を、感情に任せてテランスに振り下ろしそうな勢いだ。 「この大馬鹿者が! わしに恥をかかせるのか。せっかく人を呼んだのに台無しではないか!」  どうやらこの男がテランスの雇い主であり、この屋敷の主人のようだ。白髪交じりの黒髪は、大分薄くなっている。予定が狂うのが大嫌いなのは、とても役人臭い。 「調子を崩すぐらい、誰にだってあるじゃないか」  テランスのことが気の毒になったらしいユリスが、横から口をはさんだ。 「お前は、前にテランスの付き添いで来た男だな。またお節介に来たのか」  初老の男は鬱陶しげにユリスを睨みつけ、 「……お前、剣士だったな」  呟くように言った。弟の外套の下に、剣の鞘が見えたらしい。  剣を吊っているのはアルメルも同じなのだが、アルメルの体が小さくて子供に見えるのか、女は端から対象外なのか、数に入っていないようだ。 「そうだよ。テランスさんの師匠は僕の親だから、同じ一門だね」  弟はひょうひょうと答えた。 「わしは田舎連中の流派には疎いが……」  嫌味を混ぜてユリスとテランスを眺めながら、初老の男は今度はテランスに尋ねた。 「テランス。今、お前の一門で最も強いのは、この若造か?」 「はい」  ごほごほと咳きながら、何とか立っている状態のテランスが、迷わず肯定した。 「……若造。名は何という」 「僕? ユリス・ラウラス」 「ふん。ではユリスとやら。テランスの代わりにお前が戦え」  初老の男は、持っていた杖の先を、ひょいとユリスの鼻先に突きつけた。  妙な展開になるものだ。  黙ってやりとりを見ていたアルメルは、抜けきらない風邪のせいで、軽く咳をした。  代理戦か。戦うことそれ自体は、ユリスは嫌がりはしないだろう。むしろ喜ぶかもしれない。  横にいるテランスは、熱でぐったりした顔を複雑そうに歪ませていた。その様をユリスはちらと見て、初老の男に確認した。 「僕が勝ったら、テランスさんを雇ってくれるの?」 「考えてやろう。どうする」 「やるよ。相手は強いんだよね。強い人と戦うのは楽しいから」  弟の返事に、初老の男は無言で頷き、突きつけていた杖を下げた。  彼はそのまま庭の人だかりのほうへ歩いて行く。剣士の変更を、集まった人間に説明するためだろう。 「これでよかったよね、姉さん」 「いいんじゃないかしら。あんたなら引き受けると思ってたわ」 「坊ちゃん……」  テランスが何かを言いかけたが、もう体が持たないのか、ずるずるとその場に倒れ込んだ。額に触れてみると、熱い。宿にいたときよりも、熱が上がっているようだ。 「寝かせないと。使用人のベッドを借りられないかな」 「聞いてみるわ」  見回すと、使用人らしき男が外にいた。アルメルは彼に声をかけ、テランスを屋内に運んでもらうように頼んだ。  テランスの体が数名ががりで運ばれて行く途中で、初老の男が姉弟のところに戻ってきた。いくらか機嫌を悪くした様子でだ。 「若造、話がついたぞ。奴め、自分のところで抱えた剣士によほど自信があると見える」  初老の男は、憎たらしげに鼻を鳴らした。  奴というのは、相手の剣士を雇っている役人のことだろう。 「僕が戦う剣士のほうも、変更に納得してるの?」  鼻息の荒い初老の男に、ユリスが問うたとき。 「構わん。俺も不戦勝で帰るより、病人を相手にするより、そのほうがいい」  当人が、初老の男の後ろから、すっと現れた。   (3)    姿を見せた男性剣士は、体格的には弟とさほど変わらない。彼はゆるく波打った黒い髪を、頭の後ろで一つに束ねていた。  目を引いたのは肌の色だ。顔も手も浅黒い。だが、南で見た異教徒のように、布で体中を覆う服装ではなかった。外套の下はチュニックにズボンという、この国の庶民のそれだ。  自分たち姉弟より年上だと思うが、異民族の年齢は外見からは判断しづらい。大雑把に、二十代か三十代だろうと見て取った。 「よろしく。僕は……」 「名は聞いている。ユリスだったな。俺はロジェ。母親が異国人の、混血だ」  異国の風貌の剣士は、この国の言葉で流暢に話した。  自分から混血だと明かすのは、出自を尋ねられることが多いからなのだろう。 「じゃ、よろしくロジェ。庭に行けばいいの?」 「そうだ。外野がうるさいが、気にしても始まらん。使う得物は、向こうに用意してある模擬剣だ」 「分かった」  ユリスが楽しそうに了承すると、ロジェはぶっきらぼうに踵を返して庭のほうに歩いて行く。  彼の後を、面白くなさそうな顔の初老の男と、それにユリスとアルメルがついて行った。  庭の中央に、四角く仕切った区画が作られていた。白い砂利が敷いてある。掃いて脇に退けた雪が、小さく山になっていた。  区画の周りを、初老の男の知人らしき人間や、屋敷の使用人たちが囲んでいる。 「皆々、寒い中お待たせした。前回の腕比べが大変人気があったので、またこうして開催を……」  初老の男が中央に進み、大きな声を張り上げて簡単な挨拶を始めた。そのうち彼は、弟のほうを見てきた。こちらに来いということだろう。 「姉さん、預かってて」 「分かったわ。頑張りなさい」  アルメルは弟から外套と剣を受け取ると、初老の男のつまらない挨拶には耳も貸さないで、観戦によさそうな場所を探した。  少し割り込ませてもらって、なんとか席を確保する。  しばらくして、区画の中央に、弟と褐色の剣士が並んだ。   二人が持たされているのは模擬剣のようだ。重量の調整がされているかは、ここから見る限りでは分からない。片手使いも両手使いもできる長さがあった。  真剣は避けたいのが上の意向ならばそれでいい。  決着はどちらかが戦えなくなったときか降参したとき、と初老の男が説明した。    周囲から歓声が上がった後、ユリスとロジェの両方が、両手持ちで剣を構えた。  ユリスは中段に。ロジェは、上段に。  相手の構えを見て、面白そうに弟は言った。 「自信あるんだね」 「当然だ。俺はこれで生きてきた」  「僕も似たようなもんだよ」  弟が、場違いなくらい明るく笑ったとき、  ――始め、と初老の男の声がかかった。  砂利を蹴り、相手の間合いに足を進めるユリスの上から、ロジェが斬りかかる。  動きはユリスのほうが早かった。  斬り下ろすロジェの腕に刃を当てて、そのまま踏み込みながら手をひねる。  このままユリスがロジェの剣を下に叩き落とすか――そう誰もが思っただろう刹那。  ロジェがすっと体をずらし、剣を回して水平に斬りかかった。  ユリスの模擬剣とぶつかって、金属の音が鳴る。  ロジェの腕は力強く動き、豪胆な攻めを見せた。    斬撃の応酬を何度も何度も繰り返した後、剣同士の接触の状態になった。互いがしばし睨み合った後、間合いを取るために一旦引く。  敷かれた砂利の上をブーツが滑り、ざりざりと音を立てた。 「強いね、ロジェ」  剣を構えたまま、ユリスが笑う。笑ってはいるが、決して戦意は消えていない。 「お前も面白いな」  ロジェも、つられたようににやりとした。 「坊や、髪の短いほうを応援しているのかい?」  左からかけられた中年の男性の言葉を、アルメルは訂正した。 「私は女よ」 「ああ失礼、ここで雇っている使用人の少年かと思ったが、女性だったか。そうだな、男だとしたら顔立ちが整いすぎているな」  男はばつが悪そうに苦笑いすると、さらに話しかけてきた。試合を見ていたいので正直邪魔だが、すげなく追い払うのも悪い気がしたので、一応の相手をする。  彼は、剣を抱えて観戦する自分の姿を眺めてきた。 「剣術が好きなのかね。女性にしては珍しいな」 「剣がうちの家業なのよ。私も覚えたわ」  男は興味深そうに目を輝かせた。 「そうか。私は珍しいものが好きでね。腕前次第では、うちで雇ってもいいのだが」 「せっかくだけど、お断りするわ」  アルメルはさらりと言う。  一所に雇われ続けるのは金銭的には安定するが、自分の性には合わない。  男性は、迷いもせずに断ったアルメルを、無礼だとは思わなかったようだ。むしろ、さっぱりしていてよいとさえ考えている様子だ。  黒髪を揺らして、アルメルは試合のほうに視線を戻した。  剣士二人が、区画の中で剣戟の音を響かせている。  周囲から、わあっと歓声が沸いた。ロジェが繰り出した一撃をユリスが間一髪でかわし、反撃に転じたのだ。 「自分より、今戦っている剣士のほうが興味があるようだね。肌の黒いほう、あれは昔は貧しくて、剣しか頼るものがない生き方をしてきたんだよ……おっと、ロジェめ、押されているようだな」 「詳しいのね」  隣でぺらぺら喋る男のほうを、アルメルは向いた。よく見ると、彼がまとうのは、周りの人間よりも上等の布地の服だ。 「そりゃそうさ。私はロジェの雇い主だからね。言ったろう、珍しいものが好きと。異国人との混血で、強い剣士は珍しい」  試合は続いていた。  頭部へ仕掛けた回し斬りはロジェに防がれたものの、ユリスはそのまま二度、三度と連続して斬撃の攻勢をかける。  対するロジェは、防戦に回ってしまい、後手後手だ。攻撃を剣で受け、ユリスの隙を探しているようだが、うまく突破口を掴めずにじわじわと余裕をなくしていく。  心理的に優位に立った者が場を制するのは難しくない。  剣と剣の接触状態から一歩踏み込んだユリスが、相手の剣の刃を柄で防ぎ、左手を回してロジェの腕をつかんだ。  褐色の剣士の額に浮かんだ汗が、顔からぽたりと落ちる。  ――決まりだ。  ユリスが、つかんだロジェの腕を力任せに振る。  ロジェの模擬剣は彼の手から離れて落ち、下の砂利に斜めに突き刺さった。   (4)    眼前にユリスの模擬剣を突きつけられたロジェは、逆恨みをすることもなく、素直に自らの負けを認めた。 「勝者、ユリス・ラウラス!」  初老の男が意気揚々と、勝者を告げた。  周りで見ていた使用人たちから、ひときわ大きな歓声が上がる。改めて見ると、ずいぶんと多くの人間が、この寒い中でも外に出て来ているようだ。  テランスが屋敷の中でほったらかしになっていないだろうか。  ユリスは自分に集まる視線に恥ずかしそうに笑った後、アルメルのほうに駆け寄ってきた。その後を、ロジェも歩いてついて来る。 「おめでと」  アルメルがユリスを祝う隣で、 「いい戦いだったが、残念だったなロジェ」  隣にいた男が、褐色の剣士をねぎらった。 「しかし我が主、負けは負けだ。敗因は……そうだな、まず、俺には妻の応援がない」  生真面目な表情のまま、ロジェはアルメルの顔を見た。  ……ロジェの視線からするに、妻とは、自分のことだろうか。  ユリスが否定しないで黙っているので、どう返事したものかアルメルがまごついていると、 「何だ、違うのか? ユリスが一門で一番強いと聞いたから、面白い跡継ぎが出来そうだと思ったが」  ロジェは不思議がった。  ふざけているわけではなさそうなので、自分は妻ではなく姉だと正直に説明する。ようやくロジェは合点した様子だった。  勘違いを詫びるロジェに、アルメルは気にしていないわと軽く返した。  ただ、アルメルにも頭が痛いことではあった。  このままだとラウラス家の跡継ぎが、どうなるかは。 「ロジェ、面白かったよ」  ユリスは、対戦相手ににこやかに声をかけた。 「そうだな。俺もだ。お前のことは覚えておこう」  ロジェとその雇い主が、他の人間のところに向かった後。 「よくやった。これでわしの面子も保たれたぞ。今日は機嫌がいい。ほれ若造、何か望みはないか」  今度は初老の男がやって来た。上機嫌でにやにや笑う彼の様子に、弟は呆れたようにかぶりを振った。 「僕のことはいいよ。それよりテランスさん雇ってよ。今は体調崩してるけどさ、腕は悪くないよ。僕が保証する」  言われて試合前の話を思い出したらしい。初老の男は顎を撫でた。 「ふむ……テランスはどこだ」 「試合前に使用人の部屋に運んでもらったわ」  それではと初老の男がテランスを呼びに行かせると、使用人の勝手口で、男が二人倒れているという話が来た。  駆けつけてみると、一人はテランスだった。もう一人は、ぼろきれのような衣服を身につけた男で、誰の知り合いでもないようだ。 「……皆が試合の観戦で外している間に、屋敷に盗人が入ったので」  熱で思うように動けないのだろう。倒れたままの姿で、鼻声のテランスは言った。しかしその状態でも、彼は盗人らしき男を、がっちりと押さえていた。 「雇ってあげたら?」  杖を握りしめる初老の男の背後から、アルメルはせっついた。  いつの間にか、勝手口には使用人が集まって来ている。  初老の男は、使用人たちに厳かに告げた。 「……テランスを中で寝かせろ。薬師も呼べ。こじらせて死なせるなど、あってはならん」  *  試合から数日の後、風邪が治ったテランスは、再び雇われることになった。  ロジェの雇い主のほうが人柄が上等な気がするが、自国民の男性剣士はありふれているから、珍しい物好きのあちらに雇ってもらうのは難しいだろう。  テランスが「お嬢さんと坊ちゃんには本当にお世話になりました」と大げさに泣きついてくるので、それならばと酒をおごってもらった、翌日。  ……風邪を引いたようだ。今度は、ユリスが。  宿の部屋のベッドで、ごほごほと咳き込む弟に、アルメルは例の薬を運んだ。  薬師の住所は、あの屋敷の使用人に聞いた。思った通り高額だったが、相応の効き目があるのだから背に腹はかえられない。  上半身を起こしてよろよろと器を受け取り、水で溶いた薬を口にした弟は、熱で赤い顔を露骨に歪めた。 「うえぇ。苦い。しかもすっぱくて辛い……すごくまずい」  そうだろう。その薬がどれほどまずいかは、アルメルも身をもってよく知っている。 「姉さん、これ、よく飲んだね」  ユリスは一口で嫌気がさしたらしい。舌がぴりぴりするようで、だらしなく口を開いたまま舌を見せた。 「飲みなさいよ。あんたが動けないんじゃ、家に帰れないわ」  アルメルが口を尖らせた。何が何でも体を治してもらわないと、帰宅しようがないのだ。 「そうは言うけど……」  弟の引きつった顔には、これ以上は無理と書いてあった。さじを持つ手が動かない。  アルメルは、一つため息をついた。  自分もこの薬は苦手だけれど、仕方ない。    アルメルはユリスの手から器を取ると、薬をさじですくって自分の口に含んだ。強烈な苦みと青臭さをこらえたまま、器をそばの机に置く。 「え、姉さー―」  そして驚いた弟の唇に自分の唇を重ね、口移しで薬を流し込んだ。  ……弟も、さすがにこれには大人しくなって、飲み下した。  寸刻が永遠に化けたかとも思える沈黙は、 「……慣れたと思ったけど、本っ当にまずいわね、この薬」  口と口が離れたとき、真っ先に味の不満が出たことで壊れた。  相変わらずこの薬は、苦くて、すっぱくて、辛い。  口の端からこぼれて下に伝う薬を拭って、アルメルは仇のように器の薬を睨みつける。  まずい。とてもまずい。  自分は治っているのに、またこの薬を味わう羽目になるなんて。 「姉さん」  薬で苦くなった唇を噛んでいると、弟が呼んだ。  彼はこんな要求をしてきた。 「今のをもう一回。できれば薬なしで」  (姉と弟と弟子・了) ■10 姉と弟と負傷兵 (1)    アルメルとユリスの二人にも、あまり行きたくない地方はある。  国の南東部だ。  東の国との国境に近い一帯は、昔から領土紛争が多い。最近は大きな戦争こそ起きてはいないが、小さな衝突ならいくらでもある。  その南東部にあるラスコエという村に、薬を運べという依頼があった。  アルメルは初め、この依頼を受けるのを嫌がった。それなのに引き受けたのは、依頼主が相応の危険手当を上乗せするからと粘り強く交渉してきて、結局金額に釣られたためだ。  当然、後で弟のユリスに呆れられた。アルメル自身も後悔した。  普段以上に用心のいる場所は、厄介だからだ。  金は欲しいが、命のほうがもっと惜しい。  北に比べれば温暖な南東部とはいえ、海岸沿い以外は冬は冷える。  姉弟が無事にラスコエに品を配達し、帰り道についた晴れの日の朝。砂利道の脇にそびえる岩壁から、苦しげな人間の声が聞こえた気がした。  ……不審に思って近づいてみると、白い岩盤に穴が空いているようだ。  姉弟は、訝しげに洞穴の暗い内部を覗き込む。  すると、闇の中で何かが動いた。  一瞬、金属の輝きが見えたかと思うと、 「わああああああああああああああぁ!」  絶叫と共に、人間が飛び出してきた。 「っ!」  穴から飛び出してきたのは傷を負った少年だった。顔も体も黒く汚れている。顔立ちに幼さが残るので、まだ十代半ばだろう。  彼の右手には、片刃の剣が握られていた。  洞穴から突っ走って出て来るや、剣を見境なくぶんぶんと振り回す。 「ちょ、ちょっと、何?」  頭上から振り下ろされた剣の斬撃を、すんでのところで、アルメルはかわす。  相手は、冷静さを明らかに欠いていた。 「あぁ……! うあああ……!」  自分たちを敵と見ているのか。言葉になっていない叫びを繰り返して、少年はぜえぜえと息を切らせる。逆上したように剣を振り回す様子は、まるで熱病にかかった獣だ。  刃をかわすのにうんざりして、アルメルは腰の剣を抜き、相手の刃を刃で受けた。  鈍い金属の音が鳴り、アルメルの腕に重みがかかる。  剣の向こう側でぎらぎらと光る青い目には、怯えと恐怖が滲んでいた。 「刃物をむやみやたらに振り回すものじゃないよ」  同じく剣を抜いたユリスが、少年の後ろから首筋にぴたりと剣の刃を当てた。  少年は首に当たった刃に意識が向いて、そこでようやく頭が冷えてきたらしい。彼は片刃剣を振り回そうとはしなくなった。剣を握ったまま、荒い呼吸をしている。 「話が通じるかしら」  アルメルの声を聞いて、少年は少し考えた後、 「……オマエたち、誰だ!」  たどたどしい言葉で叫んだ。  発音には東の国のなまりがある。流れてきた東の国の人間だろうと、アルメルは推測した。  アルメルは、少年が聞き取りやすいようにゆっくりと言った。 「剣を捨てて」  けれども少年は、ふるふると首を横に振った。 「オマエたち、ワタシを、殺しに来たのか」 「違うよ」  ユリスが彼の背後から否定した。  その否定が少年の耳に入ったか定かでないが――彼は剣を取り落とし、力が吸い取られたかのように、その場にばたりと倒れこんでしまう。  辛うじて意識はあるようだが、自力で起き上がることができない様子だ。 「……ひどい体ね。とりあえず、中に運びましょうか」  アルメルは痛ましい気分になった。傷だらけの少年の体は、いたるところにぐるぐると布が巻かれている。その布も、あまり衛生的ではない。  そうだね、とユリスが姉に相槌を打つ。  このまま自分たちが去れば、彼はこのまま死ぬだろう。  それはさすがに寝覚めが悪いので、アルメルとユリスは剣を収めると、少年の体を担ぎ上げて洞穴の入り口に運んでやった。  洞穴の中は暗く、人間の荷物らしきものは乏しかった。壊れた鎧の一部が転がっていたが、これは少年が身に着けていたものだろうか。だとしたら、どこかから抜け出して来た兵士かもしれない。  改めて少年の姿を見る。体は泥で汚れていて、衰弱しているようだ。 「まともに食べてなさそうね。水は、そこの池かしら」  洞穴の近くには、水の溜まった池があった。水は澄んでいる。 「だろうね。生水で飲んでたんじゃないかな」  弟に同意だった。ここには湯を沸かす道具がない。  アルメルは旅荷物から道具を出して、洞穴の外で湯を沸かすことにした。  池から汲んできた水を火にかける。  少年の体に巻いてあるものよりはましな布があるから、それで拭いてやろう。  問題の怪我だが、ラスコエの村に薬を運んだとき、外科医はいなかった。  ベッドだけでも借りられればと思うが、ここは東の国と戦を繰り返している地域だ。ラスコエの住人が外国人――しかも、おそらくは兵士――の療養に手を貸してくれるとは思えない。  連れていけば、それこそ殺されてしまうだろう。  ……どうしたものだろうか。  ぐらぐらと沸く鍋の中の湯を、アルメルは険しい目で見た。 「名前は? な・ま・え」  洞穴の入り口で、岩肌にもたれかかった少年と、ユリスが話す声が聞こえてくる。 「僕はユリス。君の名前」 「……マルク」 「マルクだね。はい、これ」  弟は、水筒の水をカップに入れて渡そうとする。けれども、マルクは手が出ない様子だ。 「? 毒は入ってないよ」  カップの水を自分で飲んでみせて、ユリスはカップをもう一度、マルクの手に押し付ける。それでようやく、マルクは恐る恐るカップに口をつけた。 「……アリガトウ、ユリス」  弱々しい声で、マルクは感謝を告げる。  アルメルは少しほっとした。  時間はかかるが、意思疎通はできそうだ。  さて。  煮沸した布を絞ると、アルメルは洞穴の入り口に近づいた。男二人の視線が自分に向いた中、 「マルク。服を全部脱いで」  アルメルはマルクの顔を見下ろして、至極真面目に言った。 「これを、全部、取るの。できないなら私が脱がすわ」  マルクが、こちらの言うことが理解できないといった風にぽかんと口を開けたので、アルメルは彼のそばに寄り、布をつまんで繰り返し言う。  しばしの間をおいて、マルクはぶんぶんと首を振った。アルメルが怖いのか、落ち着きをなくして洞穴の奥へ後ずさろうとする。   アルメルは目をしばたたいた。どういうことだ。自分は避けられているのだろうか。 「体を拭いてあげるのよ。どうして嫌がるの」  不思議だった。取って食われるわけでなし、何故逃げようとするのだろう。  そう思っていると、弟が黒髪を掻いて言った。 「……姉さんが女だからじゃないかな、多分」  ……。  異性に裸を見せるのが恥ずかしいということか。しかし、 「今は恥ずかしがってる場合じゃないでしょ?」  ユリスに言い返すアルメルは、自然と語気が強くなった。  羞恥と体のどちらが優先か、誰だって分かりそうなものなのに。 「僕もそう思うけど……純情そうだから」  アルメルとユリスは、揃ってマルクの姿を見た。金髪碧眼の少年が、不安のまなざしで姉弟に交互に視線を遣っている。  まだ年が若い分、恥じらいの感情が強いのかもしれないが……。  けれど、このまま不衛生にしておいていいはずがない。不潔な状態では、容態が悪くなってしまう。  アルメルが扱いあぐねていると、ユリスが吐息をもらした。彼は姉の手から、布を取る。 「僕がやるよ。手に負えないようだったら呼ぶから、姉さんは外してて」 「……そうさせてもらうわ」  弟の提案に、アルメルは素直に従うことにした。   (2)    弟に任せて正解だったらしい。マルクは今度は大人しくしていたようだ。  アルメルは、弟から受け取った汚れ物を洗って、火のそばに干した。  マルク本人は、洞穴の入り口でアルメルとユリスの外套にくるまっている。 「思ったより容態はよかった。傷口にうじが湧いてもいないし。まあ、うじが湧いたほうが却って傷がよくなるなんて話も聞くけどね」  火に寄ってきた弟のユリスが言う。 「体が若い分は、治りが早そうだ」  ほっとしたように、彼は笑った。 「マルクはどこの国の人?」  アルメルは弟の隣に座って尋ねた。 「東の国って言ってた」 「やっぱり」  発音のなまりもそうだし、金の髪に青い目も、昔から東の国に住む人間の典型だ。もちろんこの国にだって金髪の人間は普通にいるのだが、総じて黒っぽい髪の人間のほうが多く見かけるし、国民らしいとも言われる。 「マルクは、どうしたいって言ってる?」 「家に帰りたいみたいだね。東の国の」  アルメルは頷いて、洞穴でぐったりしている少年を見遣った。  異国で一人、怪我に苦しんでいた少年の望みとしては、妥当な線だ。 「姉さん。マルクを街道まで連れて行ってもいいかな」  弟が、頼むように聞いてきた。  荒れた南東部で、怪我人は足手まといにしかならないが、 「そうね。今更見捨てるくらいなら、最初から放っておくべきだったもの」  アルメルは同意した。  見殺しにするのはあんまりだろう。金になりそうにはないが、かと言って放置も出来ない。  ――良心って本当に面倒よね。  自分の頭の片隅で、皮肉げにささやく声が聞こえた。  アルメルは自然と北を見た。  紛争で荒立った空気の南東部から東に帰るのは、まったく勧められない。  この寒い中で東部の山脈越えに挑むのは馬鹿げている。  遠回りだが北に向かって、春を待つのが安全だ。できれば途中で医者に診せたい。トランドーニュ東の国境の関を越えるか、港から船で東に行くかになるが、それは後々マルク本人が選べば済む。 「僕たちの方針は決まっても、マルクが何て言うかだね。食べ物もらうよ」  ユリスはくるっと後ろを向いて、袋の中身をあさり始めた。 「マルクの分は私の分から引いておいて。あんたは自分の分を食べなさい」  弟のほうには振り返らず、火を眺めたままで、アルメルは言う。  それを聞いたユリスは、呆れたようにため息をついた。 「……食べ物が足りないときは、姉さんはいっつも自分が食べないけどさ。無理しないでも」 「いいのよ。あんたが倒れたら、私が動けたって運びようがないもの。逆にあんたが動けるなら、私が倒れても担げるでしょ」  これは元よりアルメルの持論だ。  弟の心配も意に介さないという口ぶりで、さらっと言う。  今は弟の顔は見えないが、おそらく彼の顔は、返答に窮したしかめっ面だろう。賢しらで言い出したら聞かない女め、とさえ思ったかもしれない。  姉の背後で少しの間黙っていたユリスは、 「分かった。そんな羽目にならないようにするよ……弱ってる人にあげるには固いな。湯でふやかそうか」  諦めたのか苦笑して、袋の中に入っていた食べ物を出したようだ。  入っていたのは確か、固いパンと干し肉だった。 「マルクの家族は?」 「母と、弟と妹が住んでいます。弟が二人、妹が二人」 「家では何をしてたの?」 「畑に、麦を育てました」  姉弟は洞穴の前に移動し、三人で簡単な食事を始めた。  干し肉をかじる弟の前で、ふやかしたパンを口にしながら、マルクはたどたどしく話す。あまりおいしくはなさそうだが、食べられるだけましといった顔だ。 「どうしてこの国に来たの?」  自分の取り分――ちぎったパンの一片だけを口に入れて、アルメルはマルクの様子を見ていた。 「無理やり、連れて来られた。剣とか槍を渡された」  東の国のお偉いさんが、領民をかき集めて戦地に放り込んだといったところか。元々農民だったのが、いきなり武器を持たされて戦に出たのなら、さぞ怖かっただろう。 「ワタシのいた団で、この国の兵士が歩いているところを襲った。失敗しました」  マルクの純朴そうな顔がひどく曇った。敵を殺すのも、仲間が殺されるのも、まともな人間には重く圧し掛かるものだ。慣れない者なら、なおさらに。  その後の彼は逃げ彷徨って、ここに潜んでいたのだろう。  マルクの持っていた器が、かたかたと揺れる。 「帰りたい……ワタシ、帰りたい」  器に入ったパンの上に、ぽたぽたと、マルクの涙が落ちた。   「体力が戻ったら、北から東の国に帰ろう」 「お母さんと、弟と妹が待ってるんでしょ。泣かないで」  姉弟は口々に慰めた。  アルメルは背中をさすってやった。しかし、泣き声は余計ひどくなるようだ。  困ったものだ。  そう思っていると、くうぅ、とアルメルの腹が鳴った。 「マルクの食べてるパンと干し肉は、姉さんの分を分けたんだよ」  腹の音が聞こえたらしい弟が、いくらか当てこすりを含む口調で言った。  一瞬、ぴくり、と泣き声が止まる。  アルメルはマルクが持っていた器を取り上げて横に置いた。突然のことに驚いた彼の顔を、自分の胸に寄せる。怖がらせないように、そっと。 「泣くと傷に障るわよ。私の服に鼻水つけるくらいは大目に見てあげるから」  体を拭こうとしたときのように嫌がるかとも思ったが、マルクは今度は意外と大人しい。  最初はびくびくしていたが、そのうち落ち着いたのか、しゃくりあげる声がだんだんと収まっていった。  気が付くと、隣にいる弟がとてもとても面白くない顔をしていた。彼が何を考えているかは、アルメルにも大体分かる。  マルクに嫉妬したって仕方ないでしょうにと思いつつ、アルメルは若干違うことを口にした。 「ユリスだって昔はよく泣いてたじゃない。父さんと母さんがいなくなった後よね、滅多に泣かなくなったの」 「泣いてる場合じゃなくなったからね。それにマルクは当時の僕より年上だよ」 「だけど、独りよ」 「そうだけどさ」  純粋に気に入らないのだろう。ユリスは口を尖らせてそっぽを向いた。 「ネエサン」  アルメルの胸のところにある頭から、マルクの声がした。  姉さん? ユリスの呼び方が移ったのだろうか。  アルメルは拳を作って、マルクの金髪の上からこんこんと軽く叩いた。 「……私はマルクの姉じゃないわよ。名前はアルメル」 「ネエサン」 「だから、私は――」  アルメルは大きな声でゆっくり喋り、正そうとするが、 「いいんじゃないかな、“ネエサン”で」  後ろを向いていたユリスが、適当なことを口に出す。 「アリガトウ、ユリス」  それを聞いてマルクはようやく顔を上げ、まだ震える声で弟に礼を言った。  腕で顔をごしごしこすると、パンの器をもう一度持って、もくもくと中身を食べ始める。  アルメルはなんだか、呼び方を直す気がなくなった。  姉弟がしばらく動かないことを決めた、その夜のこと。  洞穴でアルメルが横になって休んでいたとき、男二人の声で、ぼんやりと意識が戻った。  目を開ける気のないまま、うつらうつらしつつ耳に入ってきたのは、 「ユリス」 「何?」 「ネエサンをください」 「駄目」 「ください」 「駄目」 「どうして」 「駄目なものは駄目」  ……という、不毛な繰り返しだった。   (3)    それから数日、姉弟はマルクと洞穴で過ごした。  食料がなくなれば、ラスコエの村に戻って安くない金と引き換えに手に入れた。  たとえ高額でも、譲ってもらえるだけありがたい。だが、あまり何度もラスコエに戻るようでは、住人に不審に思われる。  依頼で薬を渡した相手に偶然会ったときも、相手は何故帰ってきたと言わんばかりに首をかしげていた。村人が進んでこの洞穴まで来ることはないと思うが、しかし、東の国の脱走兵を匿っていることが知れたら、おそらく厄介なことになる。 「歩けるなら、早く動きたいけど」  ある朝、ユリスはマルクに出立の希望を告げた。  洞穴の中は意外と冷えないが、それでもやはり建物の中に移りたい。北に向かって、医者を探したい。 「マルク、動けるかしら」 「ダイジョウブ」  マルクの顔色はいいし、熱が出ている風でもない。洞穴の中や周囲は歩けるようになっていた。  姉弟は顔を見合わせて、頷いた。 「無理しない範囲で北に向かいましょう」  わずかな間の宿りになった洞穴から、三人は外に出た。  幸い今日は晴れていて、寒さはそこまで厳しくない。  アルメルは荷物を確認した。自分たちの持って来た物は全部袋に詰めた。洞穴の中に転がっていたマルクの片刃剣は、拾って持ち主に渡した。壊れた鎧はともかく、剣は要る。 「アリガトウ、ネエサン」 「“ありがとう”の発音は、もう少し伸ばす感じよ」  アルメルとユリスは、滞在した数日の間、マルクにこの国の言葉を教えていた。けれど正直、あまり身についたとは言い難い。簡単な挨拶でさえ、未だにたどたどしく聞こえる。 「いいんじゃないかな、通じれば」 「……そうね」  弟のほうが正しいと、アルメルは思い直す。  教えたんだからもう少し話せてもいいのに、という本音は、押し殺した。  人間、上手くできることもあればそうでないこともある。  三人で、北を目指す旅が始まった。  姉弟二人で帰還するより、だいぶ余裕を取った計画を立てての移動だった。  荒らされた畑や、略奪にあったらしい集落を見かけるとやるせない気分になったが、南東部は元々そういう土地だ。  他人を憐れむ暇があるなら、己が身を案じよと。  道の途中、数名の知り合いに出会うことがあった。同業者だ。  彼らがぶら下げていた剣を見て、途端にマルクは姉弟の後ろに隠れてしまう。 「堂々としてればいいのよ」 「マルクを狙う理由がないよ」  アルメルとユリスは、びくびくしているマルクをなだめた。あんまり怯えるようでは、却って不審に思われてしまう。 「おいおい坊主、俺たちは獣か何かか? ラウラスの姉ちゃん、挨拶ぐらいは教えとけよ」  マルクの様子に、同業者の一人が面白くなさそうに頬ひげのあたりを掻いた。  その場で姉弟と土地の情報を交換した後、 「お前さんたちも国中よく動いて回るなあ。親父さんたちの手がかりはあったか?」  彼はふと思い出したように聞いてきた。当然、ユリスは首を横に振る。 「見つからない」 「そうか……まあ、道中気を付けてな」 「お互いにね」  同業者たちは手を振ると、砂利道を南に向かって歩いて行く。  彼らの足音と、武器がこすれてがしゃがしゃと鳴る音が遠ざかって行った後、 「ネエサンとユリスの父、何か起きたのですか」  アルメルとユリスの後ろから、マルクが尋ねてきた。  そういえば、両親について話していなかった。隠すことでもないので、姉弟は正直に言う。 「僕たちの父さんと母さんは、家に帰って来ないんだ」 「私たちが子供のころに、仕事に出たっきりよ」 「だから、マルク」  アルメルはマルクの顔を見上げた。彼の身長は、小柄なアルメルよりももちろん高い。  緑の目に強い意志の輝きを宿して、アルメルは告げる。 「あんたは家に帰って、家族に会いなさい」  帰れるのなら、帰るべきだ。  会えるなら、会うべきだ。  家族に。  三人は何日も何日もかけて南東部を抜け、街道の手前にある小さな町にたどり着いた。  前に立ち寄った村で、ここなら医者がいるという話を聞いている。  診療所に行って医者にマルクを預けると、処置室からぎょっとするような悲鳴が聞こえてきた。アルメルとユリスは不安になったが、処置が終わった医者の話によると、心配するほど悪くないとのことだった。  診療所のベッドで寝ていてもいいと言われたので、姉弟は付き添いで泊めてもらうことにした。  自分たちの休息も欲しかったから、ちょうどいい。 「今後の話をしたいんだけど、いいかな」  ユリスが切りだすと、ベッドに腰掛けていたマルクは頷いた。彼は羽織った上着の下、体のあちこちにぐるぐると包帯を巻いている。医者にいじられた跡だ。 「この後は街道に出て、宿を取りながら東に行くんだ。東の果てに、トランドーニュっていう大きな港の都市がある。そこで働いて、春まで待つといいよ。春になったら、国境を越えて、東の国に帰れる」 「都ではいけませんか。少し近いです」 「都はマルクには大変だと思う。都の人間はプライドが高いからね。僕たちが話しかけても田舎臭い発音だなって笑う人がいるし、異国人じゃなおさらじゃないかな」 「トランドーニュなら、東の国の言葉が通じるわよ」  アルメルが付け足した。  国境に近いトランドーニュなら、土地柄、東の国の言葉が出来る人間は多い。旅費のために短期間働く先を見つけることも、そこまで難しくないだろう。 「もう少しかかるけど、ちゃんと国に帰れるわ」  マルクは納得した様子だった。ただどこか、寂しげな影を落としていた。  冬のよく晴れた、寒い朝。  旅に支障がないと見たアルメルとユリスは、マルクと共に街道に出た。 「いい朝だね。お別れだ」  惜別というのだろうか。  からりと笑っているユリスとは逆に、マルクはしんみりとうつむいている。彼が今後の旅に使うように、アルメルはいくらかの路銀を握らせた。 「お金のことなら、持ってる人から丁重にいただくわ。気にしないで」 「昼間に街道を歩いてるなら、多分、安全に旅ができる。治安の悪いところは歩かないように」  ユリスはあれこれ注意をして、マルクの下げた片刃剣を指で示した。 「それはあまり使わないこと。でも、使わないといけないときは迷ったら駄目だよ」  うつむいていたマルクは、子供がするようにアルメルの外套の裾を引っ張った。 「トランドーニュまで、いっしょに――」  言いかけたマルクを遮って、 「駄目だよ」 「私たちも、帰らなきゃいけないの。私たちの家は反対方向なのよ」  姉弟は断った。  別れを引き伸ばしても意味がない。  それに以前会った弓使いのように、この国の人間に執着してしまっては、帰れなくなる。 「お母さんと、弟と妹が待ってるんでしょ」  外套を引っ張る少年の手を、アルメルは外した。 「さようなら、マルク」  ――言葉が、届いたかどうか。  マルクは、うつむいたまましばらく無言でいた後、アルメルとユリスを真っ直ぐに見る。 「アリガトウ、ネエサン。ユリス」  ぎこちない発音はそのままで、彼は別れの言葉を口にした。  そのまま、街道を北東に向かって歩いて行く。  二度と振り返らずに。  *  石畳の上を歩きながら、アルメルとユリスは言葉を交わした。 「マルクは帰れるかな」 「どうなるにせよ、これ以上は踏み入れないわ。無事着くといいわね」 「そうだね」  朝の陽が差す街道を、二人はマルクと逆の方向へ進んでいく。  向かう先はロロの町の実家。  家でたっぷり休んだら、依頼人に残りの報酬を請求しに行こう。  受け取った報酬は、思い切り酔える量の酒に替えてしまいたい。  (姉と弟と負傷兵・了)   ■11 姉と弟と霊能者 (1)    ロロの町の南に位置する山間地帯に、スゥレイという町がある。  アルメルとユリスは、この町まで案内と護衛をしてほしいという依頼をしばしば受けていた。  この町に来る旅人はほぼ皆、山に向かう。  求めるものは湧き水だ。  ここの湧き水には、神の加護があるという言い伝えがあるのだ。  そのありがたい“お水様”に毒を盛るという、不届き者の予告があった。    まだ冬の寒さの続くスゥレイの町。  湧き水に向かう山道の入り口の横にある、礼拝所の裏で、 「神の奇跡の水に、なんという恐ろしいことを」  湧き水の管理をしている男性聖職者は、姉弟の前で大げさに震えて見せた。  礼拝所の正面に予告状が貼り付けられていたらしい。  アルメルは、湧き水が神の奇跡などとは信じていない。  もし奇跡の水があるとすれば、それは酒のことだと思っている。  そんなアルメルの醒めた頭の中のことなど想像もしていないだろう聖職者が、唾を飛ばして喚いた。 「いいですか、あなたたち。こんな予告はくだらないイタズラだと思いますが、万が一を考えてのことです。不届き者が悪さをしないように、水を守るのですよ」 「それで、契約期間と報酬は」  アルメルは笑顔で相対した。顔は笑っているが、毅然として仕事行儀に徹していた。 「予告にあった水の祭日ですよ。報酬は、全て終わってからの話でしょう」  水の祭日とは、湧き水が見つかったと言われる日に信徒たちで集まって、皆で少しずつ水を飲もうというこの町の祭りだ。毎年、冬と春の境目に催される。 「前金でいくらか欲しいのだけど」  ひょうひょうとしたアルメルに、聖職者は思い通りにならない苛立ちを隠せない様子だった。ほくろの多い顔が、醜悪に歪む。  不信心者めとでも罵って来るかと思ったが、意外なことに、彼は貨幣の入った革袋をアルメルに寄越した。袋は、ずしりと重い。 「金、金、金と下品だこと。これで満足でしょう」 「準備金としていただくわ」 「早く準備でも何でもしてらっしゃい。ああ、女は浅ましい」  いかり肩で不平を言う聖職者と一旦別れて、姉弟は町の商業区に向かった。  午後の陽が差す中、姉弟は商店の並ぶ区画の、店の間を歩いていた。  路上に菓子売りや野菜売りの屋台が並び、売り子が客引きに精を出している。水の祭日が近いので、当然人通りは多い。敬虔そうな夫婦や、反対にお祭りで楽しめればいいと思っていそうな男の子たちなどが、屋台の前で足を止めている。  革袋から出した貨幣で屋台売りの揚げ菓子を二つ買うと、アルメルは隣を歩く弟に一つ手渡した。 「どんな不届き者なのかしらね」 「予告状を出すくらいだから、文字の書ける人間だよね。それに、本気で毒を入れるつもりなら、予告なんてしないほうが楽にできるはずだし」  アルメルは弟の意見に同意しながら聞いていた。  渡された揚げ菓子をかじりながら、ユリスは続ける。 「他人が慌てるのを見て楽しむような、趣味の悪い奴かなって……え?」  ユリスが急に立ち止まる。おかげでアルメルは、通行人とぶつかって揚げ菓子を落としそうになってしまった。 「どうしたの?」 「名前は忘れたんだけど、前にダルガンの町で会った女占い師がいたんだ……気のせいかな」  ……ナナアリサが?  アルメルも周囲を見回すが、あの時の占い師のような女は見当たらない。通りには人が多いので、本当にナナアリサがいたとしても、もう紛れてしまったようだ。 「ごめん姉さん、見間違いかもしれない」 「気にしないで」  アルメルは弟を慰めた。  だがやはり、心の内に引っかかるものは残った。   商業区を回ったが、武器商人は店を出していないようだ。  拍子抜けした気持ちを抑えて、姉弟は礼拝所の前に戻る。  聖職者に、仕事の期間中僧房の一室を貸してほしいと頼んだが、アルメルが女だという理由で断られた。 「まあ、あの小屋なら貸してもいいけれど」  聖職者が指差す先には、ぼろぼろの木製の小屋があった。物置きのようだ。  町の宿を手配するのも考えたが、来訪者の多い今の時期は、どこも客で埋まっているだろう。それに湧き水から遠いのでは仕事に差し支える。  夜露をしのげるだけ野宿よりもましだと考えて、小屋を借りることにした。 「ところで、一つ聞きたかったのだけど」  アルメルは聖職者を呼び止めた。 「私たちは旅人の護衛をしてこの町に来たばかりなの。どうして依頼をしようと思ったの?」  アルメルとユリスは、この町で積極的に依頼を探していたのではない。この礼拝所の前を通りかかって、聖職者に声をかけられたのだ。  顔なじみでも何でもないし、自分たちが荒事を請け負う身だとどこで知ったのだろう。  聖職者は話すのも面倒という様子で、だるそうに言う。 「剣士の男と女が礼拝所の前にやってくるから、予告状のことで困ってるなら用心棒として雇えって、奇妙な女が言っていたのですよ」 「……」 「信じる気もなかったけれど、本当に剣を下げた男と女の二人連れが来るなんて」  妙なこともあるものですよと、彼は複雑そうに笑った。  スゥレイの湧き水は、礼拝所の横の山道を奥に進んだところにある。一般の旅人や聖職者がそのままの身なりで入れるくらいなので、薄暗いこと以外はさほど不便な山道ではない。  アルメルとユリスは、湿った黒い土を踏み、露に濡れた木の枝を避けて進んだ。  鬱蒼とした木に囲まれた場所で、目当ての湧き水は小さな泉を作っている。  その傍には、この湧き水を発見した聖人が刻まれた碑があった。 「聖人、ね」 「この湧き水を見つけたことで、霊能者と言われるようになったのだったかしら」  周りには他にも旅人が訪れる中、姉弟は碑を見た。  湧き水を発見した程度で霊能者扱いになるのは、よく分からない。  ダルガンの町の市で会った女占い師のように、誰もが納得する霊性でも持ち合わせていたのだろうか。  老いた旅人が、ありがたそうに湧き水をすくって口をつけている。  アルメルとユリスは、自然、彼の様子を注視した。  老人はしわだらけの節くれだった指ですくった水を、口に運ぶ。流し込んだ水を、ごくり、ごくり、と音が聞こえてくるほど喉を動かして、飲み干した。  そして、大きく息を吐いた。  ――もちろん、何も起こらない。毒で倒れるようなことはない。 「お若い方、どうかされましたか」  老人が不思議そうに、こちらを見てきた。不躾に思ったのだろう。  アルメルは老人に非礼を詫びて、自分も手に水をすくった。  湧き水は冷たく、とても澄んでいる。  水の祭日に、この湧き水に毒を盛る……くだらないイタズラだろうと、アルメルも思うのだが。  ぬぐえない不安が、確かにあった。   (2)  姉弟が山道を下り、礼拝所の横まで来ると、叱り声が聞こえてきた。  何だろうか?  奇妙に思って礼拝所の裏を見ると、姉弟に依頼をしたほくろ顔の聖職者が、若い聖職者を屋外で烈火のごとく怒鳴りつけていた。 「掃除しておけと言ったのに、終わっていないなんて……本当にどんくさい。今日はいらいらすることばっかりですよ」  ほくろ顔の聖職者は、吐き捨てるように言う。その後当てこするように乱暴に扉を閉めて、礼拝所の中に引っ込んでしまった。  単なる叱責なら放っておいてもいいのだが、何となく気になる。  アルメルとユリスは、若い聖職者のほうに近づいた。 「あ、あはは、その、どうも。見てました、よね? お恥ずかしいところを」  若い聖職者は、引きつった笑顔を作った。ぶたれたのか、彼は左頬を赤くしていた。 「殴られたの?」  ぎょっとした弟が尋ねると、 「あ、いえ、きき気にしないでください」  わたわたと二、三歩後ろずさって、若い聖職者は自身の左頬に手を添えた。彼はその手にも、妙なあざをこさえていた。  年齢は弟と同じくらいか数歳下か。薄い褐色の髪と瞳、ところどころ汚れた黒い僧服。体は細く、喋るときに相手から目をそらしがちなこの聖職者からは、気の弱そうな、世渡りの苦手そうな印象を受ける。  アルメルとユリスは自分たちから名乗り、湧き水の警備の仕事を請け負ったことを伝えた。 「ああそれで、湧き水から戻っていらしたのですね。あの水は、聖人が発見し、民に与え、毒を癒したと伝えられています」  そこまで弱々しい声で喋った後、 「あ……失礼。私はドニと申します。すみません、言い出すのが遅くて」  ドニという名の若い聖職者は、自信のなさそうな笑顔で名乗った。  姉弟が礼拝所を一旦去る前、 「私も治せたら、聖人だ、霊能者だと崇めてもらえるんでしょうか……」  悲しげにつぶやきながら、ドニは湧き水の方角を見ていた。  その日の夕方、スゥレイの町の料理屋。  店員に酒と肉料理を持って来させて、姉弟が飲食していたとき。  アルメルの正面で、酒を片手に羊肉の塩焼きをつついていたユリスが、急に顔をしかめた。  料理に何かあったのか――アルメルがそう聞こうとしたとき、理由が分かった。  甘ったるい匂いが鼻についたのだ。  この匂いをまとう人物には、覚えがある。 「こんばんは、お二人さん。髪も上着も黒くて、目が緑なんて、あなたたち本当に黒猫みたいね」  ゆるりとした低域の女声が、姉弟の耳に入った。  席の横を見れば、黒髪を三つに編んだ若い女の姿があった。紅い唇に弧を描かせて、妖艶な美貌をたたえている。以前と違って上着にフードがないので、夕の店内とは言え、顔立ちはちゃんと把握できた。  ダルガンで会った女占い師……忘れようのない女だ。 「ナナアリサ……」 「隣、失礼するわね。ユリス・ラウラス」  許可の返答を得もしないで、ナナアリサは弟の隣に座った。  ナナアリサは大層な美女だ。ゆえに弟には今、店の他の男性客から嫉妬の視線がぐさぐさ刺さっているのだが、本人はどうでもよさそうだ。  むしろこの嫌な匂いをどこかにやってくれ、食事がまずくなる、くらいに思っているに違いない。酒のカップを持つ手が止まってしまった。  ナナアリサはナナアリサで、ユリスが失礼な態度でもあまり気にしていないようだが。  彼女は机に肘をついて、両の手の指先を合わせて尖塔のようにした。月のような金色の瞳が、冷たい輝きでアルメルを見据えてくる。 「何しに来たのよ」  アルメルは歓迎していない声を出した。 「占い師が商売のために人の多い場所に出向くのはおかしくて?」 「おかしくないけど、わざわざ僕たちの前に来ることはないよ」  ユリスの辛辣な視線にも、ナナアリサは全く動じない。 「ナナアリサ……何かよからぬことでも企んでるのかしら?」 「あはは、あたしが? まさか」  ナナアリサは声を上げて笑った。  姉弟揃って彼女を招かれざる客として見ていることは分かるだろうに、堂々としたものだ。  奔放な女占い師に、アルメルは別のことを聞いた。 「質問を変えるわ、ナナアリサ。この町で、何か起こるの?」 「知ってるけど、教えないわ。だって面白くないでしょう?」  凄い言葉だ。彼女は相変わらず享楽で生きているらしい。 「だったら今ここに何しに来たんだよ」 「決まってるじゃない。冷やかしよ」  ナナアリサはけらけらと笑った。  本当に嫌な女だ。彼女の甘い匂い以上に、態度で酒がまずくなる。  そう思っていると、ナナアリサは席を離れようとした。思い出したように付け加える。 「ああそうだわ、アルメル・ラウラス。水の祭日を何事もなく終わらせたいなら、持ち場を離れちゃ駄目よ」 「……ナナアリサ、私たちの親は」  アルメルがナナアリサの背に声をかけると、 「またそれ? 世の中、知らないほうがいいことは多いって言ったわよ」  ナナアリサはひらひらと手を振った。何連にもなる貴金属の腕飾りが、しゃらしゃらと音を立てて鳴る。  他の席の男たちが物惜しそうに彼女を見たが、全く相手にしないまま、美女は店から出て行った。 「……食べるわよ、ユリス」 「そうだね」  珍客のせいでかなり減退した食欲を奮い立たせて、アルメルとユリスは羊肉に手を出した。  水の祭日がやって来た。  朝はまだまだ寒く、肌に触れる空気は冷えている。  礼拝所そばの小屋の中で着替えをしながら、アルメルは身震いした。  まだ寝具にくるまっていた弟を、仕事だから起きなさいと促す。すると寝ぼけていたのか何なのか、いきなり抱きついてきたので引っぺがした。    商店はどこも朝早くから主人や売り子が出てきて、今年一番のかき入れ時に備えて準備を始めるらしい。   聖職者たちも普段よりはきれいな僧服で、礼拝所の前で机や水の器を用意していた。  毒を盛るという予告状の件は聖職者全員が知っているようで、不機嫌そうな顔や不安そうな顔が並んでいる。  依頼主の聖職者が、アルメルとユリスの姿を見るなり大股で近づいて来た。 「あなたたち、くれぐれも用心するのですよ。万一不審者が現れたら、取り逃さないで」  彼は尊大な口ぶりで釘を刺してくる。 「分かってるわ」 「そっちの男のほうはともかく、あんたみたいな小娘に金を出さないといけないなんて」  聖職者はほくろの多い顔を歪ませて嘲笑った。  この手の嫌味を言われることはたまにあるが、相手は依頼主だ。堪えるしかない。  ほくろ顔の聖職者の背後に、ドニがいた。彼も、前にあったときよりはきれいな僧服だ。 「あ、どうも……」  彼が姉弟に気づき、うっかり声を出したのがまずかったらしい。 「向こうの手伝いは出来ているのですか? ああ鬱陶しい、早くしろ!」  ほくろ顔の聖職者は振り返って、ドニを怒鳴りつけた。ドニは青くなると、慌てて礼拝所の中に駆けこんで行く。  ドニは不満のはけ口にでもされているのだろうか。不憫なものを感じたが、ほくろ顔の聖職者が今日の段取りの説明を始めたので、姉弟は結局聞く機会を失くしてしまった。  湧き水を汲んで礼拝所の前まで運ぶのは、聖職者がやるようだ。  水を信徒に配る小さな器も、同じく聖職者が用意する。  アルメルとユリスの二人は、配るときの見張りをする――そういう話になった。  水が配られるのは、観衆の目も聖職者の目もある中だ。  不届き者がいたとして、毒を盛る隙があるだろうか。  聖職者が準備している中、姉弟は湧き水まで出向き、飲んでみたが何事もない。  概ね準備の終わったときには、太陽は天高くなっていた。 「何事もなく終わるといいけどね」  アルメルは弟に頷いて、腰に下げた剣に、確認するように触れた。  顔を上げると、湧き水のために集まって来た信徒たちが、礼拝所から少し離れた所、柵の後ろで待っている。  そろそろ陽が南中する。  水の祭日の、主たる行事が始まるときだ。  聖職者の一人が、信徒たちのほうに歩いて行った。簡単に説明をし、置かれていた柵をずらす。  信徒たちから、わあっと声が上がった。  アルメルから見えるだけでも何十人もの人が、一斉に礼拝所にやって来る。  その中に混ざって、動きの不審な人物がいた。   (3)    不審者の顔はあまりよく見えないが、多分男だろう。黒っぽい布で体を覆っていたが、異教徒かどうかは分からない。   信徒なら水や聖職者のほうに関心が向くものだろうに、どうも周囲の人間の様子ばかりを見ているのが気になる。  アルメルは弟に、警戒するように耳打ちした。 「何をしてるの」  そんな時、背後から声がかかった。ほくろ顔の聖職者だった。  アルメルとユリスの二人が言葉を濁すと、何かあるなら報告しなさいと、聖職者は顔を醜く歪ませた。  仕方なしに信徒に混ざった気になる人物についてこっそり話すと、 「それが予告状の犯人でしょう? どこなの」  彼はきょろきょろと、信徒の集まりのほうを見始め――  ……しまった!  アルメルは舌打ちをした。  聖職者があまりに不用心に眺めるものだから、不審者に気づかれたらしい。相手は黒っぽい布をひるがえし、人ごみの中に紛れていく。 「逃げたの? 追いなさい、こっちは金を払ったのですよ!」  背から来る聖職者の声に、理不尽なものを感じたが、仕方ない。  あんたが不用心だから気づかれたのよ、と言ってやりたいのを堪えて、アルメルは礼拝所前の信徒を押しのけ、不審者を探して土を蹴った。  一度だけ振り返って、ユリスに目くばせする。  弟なら、一人でも上手くやってくれるだろう。    水を既にもらい終えたか、それとも最初から祭りが目当てで水に関心がないのか。  商店の並ぶ区画は、屋台を見て歩く客で道が埋まっていた。  駆ける子供の笑い声、売り子の呼び込み、靴の音……その中を、アルメルは人を出来るだけ避けながら走った。  どこだ。  さっきの黒装束はどこに行った。  自分のような小さな女でも、気迫に満ちた形相で剣を下げて駆け回っているとなれば、雌獅子のように恐ろしく見えるらしい。買い物客の何割かは、びっくりして道の脇に後ずさった。持っていた植木の鉢を取り落した男が毒づいたが、無視するほかない。  わずかに視界入った黒い布を頼りに、アルメルはそのまま商店区画の外れまで走る。  人のほとんどいない裏路地の奥に入り込んだところで、 「!」  ――ひゅっと、刃が風を切った。  アルメルがかわしたものは投擲用の短刀だった。  いや、かわしたと思ったが、外套の肩のあたりはざっくり切れている。  飛んできた短刀の突き立った木の幹にちらと目を遣って、アルメルは抜剣して片手で柄を握った。短刀を投げた相手の居場所に見当がついたその刹那、再び、短刀がアルメルを目がけて空を切る。  金属をはじく音が周囲に響いた。  アルメルが、剣で短刀をなぎ払ったのだ。  軌道の曲がった短刀は、路地の端の、木の根に斜めに突き刺さった。 「姿を見せなさい」  剣の柄を握ったまま、アルメルは右前方を睨みつけて言った。  返事はない。  返事はないが、アルメルに向けられたじりじり灼けるような殺気もまた、消えない。  隠れているだろう場所を揺さぶってやるか――そう考えたとき。 「お前、しつこいなあ。もうちっと柔軟に生きたほうがいいぞ」  アルメルの右手前に、とん、と軽快に黒装束の小柄な男が降りてきた。  民家の屋根と壁の間の隙間に身を潜めていたようだ。 「ほうほう、よく見たら女か。女に追っかけてもらえるたあ、俺も男前が上がったかね」  男は軽口をたたきながら、両の手に一本ずつ短刀を光らせている。異教徒ではなさそうだ。  「上玉の体に傷つけるのは惜しいが、まあ、仕方ねえやな」  にやりと笑って歯を見せると、男は短刀を逆手に持ったまま、アルメルの前に突っ込んできた。  不恰好な舞のように、男は両手の短刀を振り回した。  右脇から、左脇から回ってくる短刀の刃を避けつつ、アルメルは両手持ちにした自分の剣の切っ先を、相手の肩に向けて勢いよく下ろした。  しかし男は身軽に動き、からかっているかのようにひょいひょいとアルメルの斬撃をかわす。アルメルは二度、三度と頭を狙って剣を回すが、ひらりひらりと避けられてしまった。  男は自分から数歩下がり、警戒を解かないまま重心を落とした。 「……面倒ね」  アルメルは独りごちた。  やりづらい相手だ。短刀は軽く、所持者の動きを邪魔しない上、攻撃を繰り出す手が早い。  至近距離に飛び込まれれば、首をかかれて終わりだ。  険しい顔を作るアルメルに、対峙する黒装束は間延びした声で言う。 「なあ嬢ちゃん、見逃してくれんか。命は取らんぞ」 「そんな保証がどこにあるのよ」  湧き水に毒を入れるなどと予告する人間が、命を取らないといったところで信用など出来やしない。 「疑り深いなあ、嬢ちゃん。まー、何だ、その通りなんだけどな」  男の握った短刀の刃が、閃く。  たん、たん、と素早く足を動かして距離を縮め、男はアルメルの腕を狙った。 「……っ!」   かわし損ねた。短刀はアルメルの左腕を、外套の上から皮膚まで斬っていた。赤い血が、服から外套に滲んで染みを作る。  剣を握るには差し支えないのが幸いと、反撃に転じようとするが、振りかぶったその間に男はアルメルから距離を取っていた。 「んー、上っ面切っただけか。次は足にしようかね」  アルメルの全身を舐めるように見て、黒装束の男は言った。ぺろりと舌を出したかと思うと、さっと前に進み出る。そして両の手の短刀を、アルメルの首を狙って腕ごと振り回した。  アルメルも、言葉通りに足に攻撃が来るとは思っていない。この状況で、手足から狙うような長期戦をやる意味がないのだ。アルメルが彼の立場でも急所を狙う。  アルメルは短刀の刃をかわすと、短刀を持つ左手を狙って、剣の柄頭で横から殴りつけた。  動きを止めはしたが、短刀を落とさなかった左手に剣の刃を当てて、すぐさま下に引く。血と共に、左手の短刀は路上に転がった。  つんざくような男の悲鳴が上がった。体をひねってアルメルを狙う右手の短刀を、今度は、剣の刃で受ける。左手を斬られたゆえか相手は注意が散漫になったので、アルメルは剣の刃を徐々にずらして男の腕に近づけ、腕に触れた瞬間に下に引いた。  血痕の出来た路上で。  両の手の短刀を落とした男の、俯いて低く下がった頭を、アルメルは柄頭で殴りつけた。 「毒はどこなの」  自分が殴って路上にうつぶせにした男に、アルメルは涼しい顔で聞いた。 「何のことだ。俺は祭りで集まった連中から、ちょろっと財布をいただくために来たんだ。ったく、痛えことしやがる」 「湧き水に毒を入れるという予告状は、あんたじゃないの?」 「知らねえな」  男はうつ伏せのまま、下品な笑い声を漏らした。  嘘をついているようには見えなかった。  この男は、単なる武装したスリだということか?  アルメルは急激に頭が冷えて――同時に、恐ろしくなるものを思い出した。  昨夕のナナアリサが、離れ際に言っていたことだ。 (アルメル・ラウラス。水の祭日を何事もなく終わらせたいなら、持ち場を離れちゃ駄目よ)  彼女は、持ち場を離れるなと自分に言った。弟ではなく、自分に。 「面白れえことがありそうだな。嬢ちゃん、俺に用がないなら逃がし……ぐぉっ!?」  アルメルは男の横腹に蹴りを入れて黙らせると、足首をひっ掴んで逃げられないように腱を切った。美しくない悲鳴が上がったが、どうでもいい。  近くを歩いていた住人を捕まえてスリの男のことを話し、アルメルは剣を収めて急いで礼拝所に向かった。  ぽたり、と嫌な汗がアルメルの顔を伝って落ちる。  商店の区画を抜け、礼拝所前に差し掛かるあたりで、ようやく気付いた。  礼拝所からじわじわと広がる、人々の動揺に。   (4)  礼拝所から離れていく人数がやけに多い。水をもらい終えたからといった風ではない。逃げ出すような信徒たちの顔には、明らかに怯えと混乱が浮かんでいた。 「うう、あぁ……」 「気持ち悪い、苦しい……」 「水を、飲んだら、こんなことに」  冬の終わりの、日中。  まだ明るい屋外で人々が倒れ込むのは、異様な有様だった。  地べたにうずくまった若い女。汚れるのもかまわず路上に転がる子供。嘔吐する老人。  大柄な男が、母親らしき老婆の体をさすりながら、水を配ったらしい聖職者に対して大声で怒りをぶつけている。  対応する聖職者は、どうしてこんなことになったのか分からないといった顔で、男をなだめようと必死だった。  礼拝所の周りは、逃げないかわりに、何が起こったのか見ていようという野次馬が残ったようだ。その野次馬の間をくぐって、アルメルは弟に駆け寄った。 「ユリス!」 「姉さん……やられたよ」  ユリスは力なく言った。  予告どおりの惨状になった、ということか。 「水の入った器を配ってたら、気分を悪くする人が出たんだ。今は配るのは止めてる。強い毒ではないみたい。体調は悪くしても、死者はいないから。だけど、どうしてこんな嫌がらせをするんだろうね」  静かに語る弟の声には、少なからぬ怒りがあった。 「その傷、大丈夫?」 「気にしなくていいわ……あら」  姉弟のところに、またほくろ顔の聖職者がやって来た。アルメルの姿に気づいたようだ。 「犯人は?」 「……さっきのはただのスリよ。湧き水とは無関係だわ」  ほくろ顔の聖職者は、アルメルを軽んじる目で見てきた。 「ふん。使えない女だこと。だからこんなことになるのですよ」  あの黒装束を追いかけろと言ったのは誰なのだ。  喉から出そうになった怒りと不満を飲み込んで、アルメルは唇を噛んだ。  しかし、いったい誰に可能だというのだろう。  聖職者たちと弟の目を潜り抜けて、水に毒を入れる。そんなことが。  周囲でおろおろしている聖職者たちを見遣って、一人、見当たらないことに気づいた。 「……ドニはどこ?」 「あののろまなら、向こうで器を洗っていましたが」 「器……」  アルメルは反芻し、ほくろ顔の聖職者が顎で示したほうに向かった。  礼拝所の裏で、ドニは茶色い粉をといていた。服の袖に、わずかに白い粉汚れがある。 「何をしてるの?」 「ひゃ、剣士さん。これは、解毒です。れ、礼拝所の中には、薬が保存してあるんです」  声ががかったことに驚いたらしい。ドニは、落ち着かない様子で視線をあちこちに逸らす。 「倒れている人たちの症状に合う薬なの?」 「は、はい。そのはず、です」  こくこくと頷くドニに、アルメルは何だか違和感を覚えた。  薬を常備している……そういうこともあるだろう。だが、準備が良すぎやしないだろうか。  しかし今は、それどころじゃない。 「だったら頂戴。配るわ。手分けすれば早く助けてあげられるでしょ」 「え?」  ドニは想定外だという声を上げた。 「あなたたちが配ってしまうと……それだと、私が助けられません」  おかしなことを言うものだ。アルメルは語気を強くした。 「倒れた人が助かるなら、あんたじゃなくても、誰が配ってもいいはずでしょう?」 「そんな! ……あ、いえ……その通りです」  恨めし気な顔を作ったドニから薬の器を強引に受け取り、アルメルは表に戻った。今は患者を助けるのが先だ。  ……違和感を追及するのは後でいい。  配った解毒薬は本当に効果があったらしい。倒れていた信徒は、顔色がよくなった。ただ彼らは、当然と言うべきか、歩けるようになると早々に礼拝所から離れていったが。  毒を飲ませやがってと、こちらを罵る言葉も飛び交った。  本来の予定よりもずっと早くに閑散とした礼拝所の前に、聖職者が集まっていた。  話し合いの内容は、この毒の水の騒動についてだ。 「状況的に、外部の者の仕業とは思えません。残念ながら、我々の誰かなのでは。予告状……つまり、文字が書けると言うだけでも、かなり限定がされてしまう。ここの者なら皆、読み書きは習得しているゆえ」 「ふん、だったらドニが悪巧みでもしたんじゃないですか」  ほくろ顔の聖職者が、たちの悪い冗談のように笑いながら言った。 「……お待ちを。いくらなんでも、決めつけは」 「いいえ、ドニよ」  そこにアルメルが、横から口をはさんだ。  別にほくろ顔の聖職者の肩を持つわけではない。その線が一番あり得ると思ったのだ。 「姉さん?」 「ちょっ、ちょっと待ってください。私が、毒を、入れるなんて」 「ドニ。どうして解毒薬まで分かったの?」 「それは……」  ドニは口ごもった。  薬を常備していたとして、何が効くのかまで知っていたのは、偶然と言い切るには苦しい。 「集まった人に配る水の器を用意したのは誰なの?」 「私、です」  ドニは言った。毒を入れる機会もある。そして、 「ドニ、あんたの袖についてる白い粉を、ちょっと舐めて」  言われて、ドニは袖を確認し―― 「え? い、い、嫌です!」  明らかな嫌悪で声を張り上げた。 「どうして嫌なの? それは、何の粉をつけたの?」  ドニは答えなかった。どこで手に入れたか知らないが、おそらくはその白い粉が、彼の盛った毒薬だ。  力が抜けたようにその場にしゃがみ込んだドニを、ユリスは見下ろした。 「自分で予告状を書いて、自分で毒を撒いて、自分で解毒薬を配るのか」  ドニはおろおろするだけで、否定しなかった。  ひどい話だ。ひどい茶番劇だ。  ユリスに睨まれて、ついにいたたまれなくなったらしいドニが、口を動かした。 「毒で苦しむ人を助ければ、湧き水の聖人のように、霊能者だと崇めてもらえると思ったんです。礼拝所の中で尊敬されて、殴られなくなると思ったんです……」  言い訳をするドニの声はか細いものだった。  彼は集団の中で自分の立場を上げるために、短絡的な行為に走ったらしい。ばれたら何の意味もないどころか、失墜するだろうに。 「また殴られる……もう、もう嫌なんです」 「……殴られた仕返しがしたければ、本人にやり返すのが筋だろ」  腹立たしげにユリスが言う。復讐という行為自体は褒められたものではないが、感情の理解はできる。昔の自分も、殴られた弟と共に仕返しをしたことがあるくらいだ。  しかし、赤の他人を巻き込んで自尊心の回復を企むのは愚かとしか言いようがない。  眉間にしわを寄せたほくろ顔の聖職者が、拳を作った。 「本当にどうにもならないクズだこと!」  ドニを罵って殴りかかろうとしたその腕を、ユリスは掴んだ。ドニのときよりもさらに鋭い顔で、ほくろ顔の聖職者を睨みつける。  聖職者は目を丸くした。なぜ止める? とでも言い出しそうな彼に、弟は本気で怒っていた。  獅子が咆哮するかのような猛々しい叫びが響く。 「ドニがこんなことをしたのは、あんたが原因じゃないのか!」    アルメルは、この茶番劇は酷いものだと思っていた。だがドニがこうなるに至った心情を考えると、複雑だった。  ドニは虐待されるうちに、歪んだ自意識を育ててしまったのだろう。 「あんたが普段から殴りつけてるせいじゃないのか! 答えろ!」 「い、痛い、やめなさい! このガキ……」 「ユリス、相手は依頼主よ」  必要以上に強く掴んでいた弟を、アルメルは止めた。このままではユリスが、ほくろ顔の聖職者を殴りつけてしまいそうだ。  ユリスは不承不承、腕を下ろした。力の抜けた弟の腕を振り払って、ほくろ顔の聖職者は僧服の袖の上から腕をさする。脂汗を浮かべ、ユリスを血走った目で見てきたが、さすがに剣持ちと殴り合いをする度胸はないらしい。それ以上は何も言わなかった。  老いた聖職者が一人、アルメルとユリスの前に進み出てきた。 「お若い方々、お恥ずかしいところをお見せした。これから先は、我らで済ませます。お引き取りを」 「……あの二人はどうなるのかしら」 「我らで済ませます。お引き取りを」  聖職者は淡白に繰り返した。  腑に落ちないものを強く感じながら、アルメルは引くしかないのを理解した。  確かに自分たちでは、これ以上は何も出来ないのだから。  *  水の祭日から一夜明けた、スゥレイの料理屋で。  アルメルとユリスは、昼間から不味そうに川魚の蒸し焼きをつついていた。  酒を給仕に来た店員が、妙な暗い雰囲気に首をかしげるほどに。  残りの報酬をもらいそびれたが、諦めることにした。弟は、あの聖職者から金を受け取るのも嫌だろう。  湧き水はしばらく使用禁止になった。  ドニの処分に関しては教会内に任せるしかない。   彼のしたことを考えれば処分は当然だが、何ともやるせない気分だ。 「仲間内で崇めてもらうために自作自演、か」 「さもしいと言ってしまえばそれまででしょうけど……ね」  そうまでして霊能者や聖人というやつになりたいものなのだろうか。  アルメルの知る限り、あれはただの湧き水だ。冷たく澄んだ水でしかない。  聖人が毒を癒したというのも、悪いものを食べた人に飲ませて吐き出させた程度のことが、人から人へ伝わるうちに聖人だの霊能者だのと誇大化したのだろうと思う。  ナナアリサは、水の祭日が終わるとすぐに姿を消したようだ。  人の集まるところに顔を出しては、余計なことを吹聴して歩くのが彼女の生き方なのだろう。  もし彼女に言われた通り、スリの男を追わずにいたら、毒の水は配られなかったのかもしれないが……今ではもう、考えても詮無い事だ。 「世の中知らないほうがいいことは多い……なんて言われても」  ナナアリサの言葉を思い出し、アルメルは独りごちた。  濁った水のように不透明なままにしたくはないのだ。  家族のことは。  (姉と弟と霊能者・了)   ■12 姉と弟は共有者 (1)    ロロの町に、春の風が舞い込んできた。  植木や草には赤や黄色や白のつぼみがちらほらと見え始め、空気は冷たさも和らいで、生命の芽吹く季節が訪れたことを告げている。  ロロの町外れに建つ、あちこち傷みだした石と木の民家が、姉弟の家だ。  その屋内で、 「……叔母さんの言うとおり、父さんに似てきたかしら」  昼前に着替え中のユリスに、アルメルが言った。  この家の寝室にベッドは一つだけで、親が使っていたものを姉弟でそのまま使っている。  アルメルはそのベッドの上に、ごろんと仰向けになっていた。 「そりゃ親子だし、似ると思うよ」  ユリスは人差し指で頬を掻いた。  若干気恥ずかしそうだったのは、父親に似ているかどうかよりも、アルメルの視線のほうを気にしたのかもしれない。着替え途中なので、上半身裸の状態だからだ。  普段から武器を手にして動き回るから、相応に筋肉がついた体。それに自分と同じく傷だらけだ。もっとも、女の自分よりかは、傷痕を嫌がられることは少ないだろうけれども。 「姉さんもあんまり母さん似とは言われないね」 「父親譲りの髪と目の色のほうが、目立つんでしょうね」  母は自分たちのことを差して、誰が見ても父親の子だと分かるからいいと笑っていた覚えがある。  天井の梁を眺めて、アルメルはぼんやりと言った。 「……今年も帰って来なかったわね、父さんと母さん」 「……」  弟は返事を寄越さなかった。代わりに、アルメルの寝ているベッドに腰掛ける。  叔母に言われるまでもなく、いつまでこんな生活を続けるのだろうと思うことはある。  待ち続ける生活を。  春の花が、夏の暑さが、秋の風が、冬の雪が巡るのをずっと繰り返して。 「似てきたって言うけど、僕は父さんじゃないよ」 「分かってるわ」  アルメルは腕を上げてひらひらと手を振った。  弟がちらちらとこちらを見てくるのは、自分が素っ裸で寝転がっているからだろう。  わざわざ気を遣う相手とも思わないので、堂々と全裸で過ごしている。  乳房の頂や、太ももや、脚の付け根を見たければ勝手にしろという感覚だ。 「父さんが母さんと知り合ったのは、父さんが依頼で出かけた先だったかしら」 「そう聞いたよ。同行してた叔母さんが、恥ずかしくなるくらいの猛攻で口説いてたって」  姉弟の母も剣士だ。だが、女性の剣士は珍しい。  アルメルもユリスも、叔母以外で女の同業に会うことはめったにない。  都で試合を観戦していた時に会った役人も、女剣士というだけで珍しがっていた。 「君がいないと俺は生きていけないって、母さんに泣きついたって言ってたわね」  若い頃の母に泣きつく父の姿を想像したが……あまり笑えなかった。 「……大変だったろうね、当時の母さんも」  アルメルは頷いた。  自分がユリスに泣きつかれるようなものだと思えば、気苦労は想像に難くない。  「やっぱり連れ合いには同業がよかったのかしらね」 「勝手が分かる人のほうが楽だからね」 「ユリスもそう思う?」 「うん」  弟はすぐに肯定した。  自分に近いものを求めるのも、親に似たのかもしれない。  ユリスは上半身をひねって、寝転がるアルメルの脇腹についた傷痕を、指先で撫でてきた。 「……くすぐったいわよ」  アルメルはやんわり止めたつもりだったが、弟はそうは取らなかったらしい。  ……いや、分かっていて止めないのか。  胸の下、へその近く……傷痕ばかりを、ごつごつした男の指がたどる。  普通の男なら、せっかくの肌に傷がついてるなんざ勿体ないだの何だのと言い出すところなのだろうが、見ようが触ろうが一切そういうことを口にしないのは、彼なりの気遣いなのかもしれない。 「……傷痕が増えるばっかりよね。私もあんたも」  アルメルは淡々と言った。自分の胴に触れてくる弟の腕にも、戦傷がある。 「前に盗賊団の殲滅を手伝ったときにさ、残党に報復されて二人ともぼろぼろになったよね。よく生きてたなって今でも思うけど」  痛い目に遭った記憶なのに、ユリスは楽しげに喋る。自分と同じ緑色の目が、いたずらっぽく輝いた。 「怒るかもしれないけど、あの血だらけの姉さんが一番そそった。手負いの獣みたいで」 「……変態」 「それは否定しない」  ユリスは苦笑した。 「昔話もいいけど、そろそろ服着なさい」  アルメルは自分の腹を撫でてはつつく弟の、手の甲を軽くつねった。昼前から増長されてもちょっと困る。  弟は手を引っ込めると、 「姉さんこそ、お客が来たら困るよ」  ベッドの横に置いていた上着を被り、幾分物足りなさげにベッドから立ち上がった。 「稽古場で素振りしてるから、起きてくるなら相手して」   壁に立てかけてあった長剣を手に取って、弟は寝室から出ていく。  家の中を歩く足音の後、玄関の戸が開閉した音が聞こえた。  ユリスが寝室から去った後。  アルメルは自分の体の上半身を起こし、頭ごと黒い髪をふるふると揺すった。   その後右手で顔を押さえるようにして、ぎゅっと目を閉じる。  弟が、父親のように旅先で他の女を見つけて結ばれることは、多分ない。  それが分かるから、アルメルはずっと悩んでいた。  悩んでいる間に、弟から離れられなくなってしまった。  ……もう後戻りはできないほどに。   (2)    アルメルの知る限り、弟よりも優れた相方はいない。  剣の腕ももちろんだが、報酬の取り分で揉めないのが大きい。  金の切れ目は縁の切れ目。報酬でいざこざが起きて、結局けんか別れになる同業の一団を、アルメルはいくつも見てきた。  金を別にしても、命のやりとりを含む以上は、安易な付き合いができない。  仲間の打ちだした方針に納得できずに、手を切ってしまう同業もこれまた多い。  防犯の意味もあった。  仕事の都合で、治安のよくない区域に入らなければならないことはときどきあるが、女というだけで、金銭も身体も狙われやすくなる。弟を連れ歩いていてもそうなのだから、自分一人でなど、とてもじゃないがやっていられない。    腕前に信用が置ける。  金でトラブルにならない。  付き合いやすい。  ……この三つを兼ねる仲間を探すのは、難しい。  ベッドから下りて服を着ると、アルメルは自分の剣を持って稽古場に行った。  稽古場では、弟が板間の上で素振りをしていた。彼はアルメルが来たのに気が付くと、手を止めた。剣を立てかけて、そばに置いてあった布を取って汗を拭く。 「姉さん。相手してくれる?」  稽古の相手を希望した弟に、 「あんたって欲がないわよね」 「……何の話?」  アルメルが唐突に欲がどうのと言い出したので、ユリスは首をかしげた。  「有名になって、大きな剣術道場を構えて弟子をたくさんとろうとか、考えたことはないかしら」  ユリスは面倒そうに肩をすくめた。 「叔母さんとこの訓練所でも大きすぎるよ。もっと小さくていい」 「弟子が少なかったらお金にならないじゃない」 「金なんて生活できる分があればいいよ」  弟の言葉はさらっとしたものだった。  本当に、欲のないことだと思う。 「ユリスはやりたいことはないの?」 「僕は姉さんさえいればいいかな。酒飲んで魚釣りして、たまに強い人と戦って遊べれば十分だよ」  からりとした声で言うと、ユリスは怪訝そうにアルメルの顔を見てきた。  どうしてそんなことを聞いてくるのだろうと思ったようだ。 「姉さんは、何かあるの? やりたいこと」  少し口ごもった後、アルメルは告げた。 「……父さんと、母さんを」  その返事を聞いたユリスは、困ったように嘆息した。 「僕たちは五年以上も国中を探し回ったよ。それでも納得できない?」 「……できないわ」  アルメルは、持っていた剣を抱きしめるようにした。  もう十年も帰って来ない親。  どれほど諦めが悪いと思われようと、不透明なままなのは嫌だった。  しばらくの間、ユリスはアルメルの姿を見つめていた。  じっと剣を抱きかかえて、うつむいた姉に、 「……分かった」  静かに、けれど確たる意思のこもった声で、ユリスは返した。 「父さんと母さんを探そう。姉さんの気が済むまで」 「持って行くものなんて、いつもどおり、剣と旅の道具くらいだ。路銀はその土地その土地で、何か仕事して稼ごう。外国に行ってもいいよ。いつ終わるのか……分からない旅になるけど」 「ユリス……」  弟は屈託なく笑った。 「姉さん一人で行かせられないからね。僕は姉さんさえいればいいし。それに僕だって薄情じゃない。両親のことは気になるよ」  ユリスはアルメルの前に進み出た。  弟の大きな手が、アルメルの頬に振れる。  身長も手も、こんなに大きかっただろうか。子供の頃、弟に身長を抜かされたときには面白くなかったものだが、どういうわけか今は、とても安心できる。 「姉さん、僕から依頼していい?」  「……何?」 「僕の親を探して。報酬は……僕が一生ついてくる」 「……体で払うってこと?」  弟なりの冗談なのかと思いきや、 「駄目かな。僕、相方として不足はないって思ってたけど」  彼は思っていたよりずっとずっと真面目に答えた。  その通りだと思う。  弟以上の相方を得ることは、生涯においてないだろう。  頬に触れる弟の手に、アルメルは自分の右手を重ねた。  こんなに自分を愛してくれる相手の前で、暗い顔ではいられない。  弟の顔を見上げて、にっこり笑う。弟と同じ緑の目を、強い意志で輝かせて。 「だったら、ユリス。私もあなたに依頼するわ。私の親を探して」 「報酬は」 「あんたがくれるものと同じでいいわ。私が、一生。どうかしら?」 「……何も文句ないよ」  アルメルの上から、照れた弟の声がした。  アルメルが爪先立ちで自身の背を押し上げる。  近づけられた姉の顔に、ユリスは唇を重ねてきた。    (3)    翌朝。菜っ葉だけのスープで腹を満たした後、姉弟は旅支度を始めた。  支度が済むと、ユリスは玄関で柱の傷をじっと見つめていた。十年以上前、両親がいなくなった後に、剣でつけた柱傷だ。  そうしてどれほど経ったか、彼は別れを決意して家と稽古場に鍵をかけた。  その日の午前中に、姉弟は叔母の訓練所を訪問した。 「アルメル姉とユリス兄? どうしたの? また仕事?」 「叔母さんを呼んで頂戴」  出迎えたのは叔母の息子だった。姉弟から見ればいとこになる。彼はこげ茶色の髪を揺らせて、叔母を呼びに行った。  いくらか待った後、出てきた叔母は、姉弟のただならぬ雰囲気に戸惑ったようだった。 「あんたたち……? 手なんて繋いでどうしたのよ」  ユリスが叔母に鍵を渡すと、アルメルは叔母に、できるだけ優しく頼んだ。 「十年前、父さんと母さんが向かった道を教えてほしいの」  意図が読めたらしい叔母は、ぎょっとして言う。 「あのとき、私たちがどれだけ必死に探したか知ってるでしょう?」 「知ってる。でも、僕たちの親だ。だから、本当は僕たちの仕事のはずだよ、叔母さん」 「あんたたち……馬鹿兄貴と義姉さんを見つけるまで、帰って来ないつもりね?」  叔母は、行き場のない怒りと悲しみが混ざったように、顔をゆがめた。  うつむいて、服の裾をぐっと握りしめ、拳を震わせた。 「……待っておいで」  やるせない顔のまま、叔母は訓練所ではなく、家のほうに入った。  しばらくして姉弟の前に戻ってきた叔母は、アルメルの手に何かを握らせる。手を開くと、貴石の連なった首飾りがあった。 「昔、兄貴がくれたの。路銀の足しにでもしなさい」 「叔母さん……」 「それから、この地図を見て。十年前の、兄貴と義姉さんの仕事だけど」  叔母からすれば、兄の子である自分たちまでがいなくなるのだ。辛いに決まっている。  けれども彼女は、ぐっと本音を押し殺した様子で、説明に徹していた。 「アルメル。ユリス。帰ってきたくなったら、いつでも会いにおいで。あんたたちの家は、この町にあるよ。親ではないけど……私も肉親よ」 「ありがとう、叔母さん」  アルメルは心から叔母に感謝した。  元気でおやり、と最後に口にして、叔母は訓練所の中に戻っていく。  閉めた戸の向こうから、叔母の泣き声がかすかに聞こえてきたのを背にして、姉弟は訓練所から歩み去った。  姉弟が町を出ようと、外れの雑木のあたりに来たとき。 「あら、ジュスト?」  足下に、ううと唸る白猫がやって来た。アルメルがジュストと名付けた白猫だった。  こんなところまで縄張りなのかと驚いていると、白猫は、咥えていた小鳥を石の上に置いた。アルメルに何か教えるように、にい、と一鳴きする。 「……何かしら」 「旅の餞別……かな?」  小鳥は息絶えていた。ジュストが噛み殺してしまったようだ。  人の身では、猫の牙が食い込んだ小鳥をもらったところで、なんともしがたい。  アルメルは小鳥の羽をむしって肉にして、ジュストの前に置いた。 「ジュスト、あんたも元気でね」  白猫はしばらくアルメルととにらめっこをしていたが、やがて小鳥の肉を咥えて、草の間を駆けて行った。  彼が向かったほうを見やると、別の猫が一匹、待っていたようだ。  ……どうも、よろしくやる相手がいるらしい。  アルメルは、つい笑みをこぼした。  あの猫は自分たちがいなくても、きっと元気に生きていくだろう。  荷物を一旦地面に置いて、アルメルは伸びをした。  旅の餞別は首飾りと、小鳥の肉(後で丁重に本人にお返しした)。  持ち物はいつもどおりの、剣と旅の道具。  それにいつもどおり、苦楽を共にする相手が一緒だ。 「姉さん、早く行こう」 「そうね」  アルメルはユリスに微笑んだ。  街道に出て、日が暮れるより先に次の町に着きたい。  春の晴れた空を、アルメルは見上げた。青く、どこまでも広がる空。  今回は、今までよりずっとずっと長い旅になるだろう。果てのない旅になるかもしれない。  けれども、大丈夫だ。  独りじゃないから。  共に戦い、喜びも痛みも悩みも、すべて共有できる相手がいるから。  (姉と弟は共有者・了)   ■終章1 黒猫の竜退治 (1)    東部領内の記録に、こんな一節がある。  当時の領主の息子が、狩りのために農村を訪れた際、  旅をしていた男女の、女のほうを奪おうとしたが叶わず、  その男女が姉弟と知るや、腹いせに姦淫の罪で処刑しようとしたという。   * 「……姉さんと一緒にいたいだけなのに、どうして殺されなきゃならないんだろうね」  東部の農村にある、農作業道具の小屋の中。  粉っぽく薄暗いそこに、アルメルとユリスは閉じ込められていた。  剣は取り上げられ、体はロープで縛られている。  親を探す旅の最中、姉弟が立ち寄った農村に、たまたま貴族の息子も訪れていた。何が気に召したのか、一夜の遊び相手にアルメルが欲しいと言い出したらしい。  当然ながらアルメルにそんな気はない。はっきり断ると、従者が剣で脅して無理やり引っ張っていこうとしたので、姉を助けるために弟は従者を斬りつけた。  その後武装した村人に囲まれて逃げ出せず……現在に至る。 「無茶な話よね」  アルメルは目を伏せた。  脅されたときに自分の剣を抜かなかったのは、出来るなら面倒を避けたかったからだ。結果は、この有様だが。  もちろん穏便に逃げ出せるような状況ではなかったから、ユリスには恩はあっても怒るようなことはない。閉じ込められる場所が弟と同じだけ、ましだと思うべきだろう。 「本当に、腹が立つ」  体をぐるぐる巻きにしているロープから抜け出せないか苦闘しながら、弟が言う。  そのうち無駄に体力を使うだけだと悟ったのか、舌打ちをしてふて腐れたように止めてしまった。  法など、お偉いさんが自分たちの都合のいいように運用するものだ。こうして捕らえられているのも、姦淫だのは口実で、単に機嫌を損ねたからだろう。   自分が犠牲になってでも弟を逃がすという方針も考えたが、弟の性格からすれば、まず無理だ。何があっても自分を助けようとするに決まっている。  アルメルは小屋の天井を仰いだ。  故郷のロロの町を発ってもうどれだけになるか。  飢え死にさせられるか縛り首か、自分たちを殺す方法は知らないが。  結局親の手がかりを得られないまま、ここで弟と我が身が潰えるのは、無念でならない。  すきっ腹で、外は夜なのか昼なのか、時間の感覚がよく分からなくなってきたとき。  乱暴に木戸が叩かれて、戸が開かれるのと同時に光が小屋に入ってきた。  戸の外は数名の人間に囲まれていたらしい。うち一人が、中に入ってきた。  松明の火に照らされたその男の顔には見覚えがあった。昼間、弟が斬りつけた従者だ。腕にはくるくると布を巻いていた。   ユリスは威嚇で斬っただけだから、深手にはなっていないはずだ。 「……ようこそお越しで」  冷めた声で、アルメルは言った。言っただけだ。この姿で歓待できるはずがないし、その気もない。  アルメルの皮肉に従者は苦々しく顔をひきつらせたが、無言のまま外にいた人物を小屋に招く。  続いて、重たい足音と共に、身なりのいい男が小屋に入ってきた。  年は三十代後半か四十か。麦酒の樽のように丸っこく太った大きな体で、短い黒い髪に灰色の瞳。腰のベルトに、三枚羽の竜を意匠にした飾りをつけていた。全体に鈍重な印象を受ける中、こちらを見下ろす目だけは刃物のように鋭い。  どうやらこの男が従者の主人――アルメルを欲しがった貴族の息子のようだ。  彼は、先程のアルメルの声よりもさらにさらに冷えた低い声を発した。 「一晩遊んでやろうとしたにすぎないのに、我が従者を傷つけてでも逃げるか」 「ダヴィド様……」 「黙っていろ。お前に話せとは言っておらん」  従者を邪魔そうに制して、ダヴィドという名の男はアルメルとユリスを睨んだ。彼の灰色の瞳には、侮蔑が滲んでいる。  自分たちとは相容れぬ人間だと、アルメルは思った。  ダヴィドの声と仕草は突き刺さるような悪意を醸していた。普段の通りに帯剣していたならば、姉弟は剣の柄に手をかけているかもしれない。それほどに警戒心を呼び起こすものがある。 「姉さんを連れて行くつもり?」  呪いのこもった弟の問いを、ダヴィドは鼻で笑った。 「それはもういい。興ざめだ……お前たち」  こちらを顎で示すと、立て、と尊大な手振りで示す。 「剣士だったな。ブロンデルの町まで歩け。民衆に見世物をする広場がある」    この農村から半日ほど歩いたところに、東部では比較的栄えたブロンデルという町がある。そこでは時々、牛や鹿を犬に襲わせる見世物が開かれていた。人間が出場することもあるという。  弟は不審もあらわに、脂ぎったダヴィドの顔を見た。 「何をさせる気? 動物をいたぶるの? 剣の腕比べ?」  ダヴィドの灰色の目が、昏い輝きを宿す。 「人間同士の殺し合いだ。生き残ったら、解放してやってもいい」 「……断ったら?」  返事は淡白なものだった。 「裸で姉弟並べて逆さ吊りにするだけだ」  ダヴィドは、下劣な笑みで口の端を吊り上げた。 「私はどちらでも構わん。民衆は、見世物が好きだからな。娯楽を提供してやるのだ」  その口ぶりに、慈悲はまったく存在しない。  アルメルは、ダヴィドの言葉を頭の中で繰り返した。  彼は、自分たちが勝利し解放される未来など欲してはいまい。  ダヴィドは自分たち姉弟に、見世物として死ねと言っているのだ。  付け加えるなら、民衆の鬱積を晴らすのに向くような、残虐な死に方で。  アルメルの内心に気づいたのか否か、ダヴィドは脂肪の多くついた体を揺すって笑った。 「娯楽を欲するのは、私も民衆も変わらん。この世など道楽だ。女を犯すのも、民を殺すのも、野鳥や熊を狩るのも、みな等しく楽しいからだ。そうだろう?」  哄笑の中、姉弟は返事をしなかった。  ただ無言で、唇を噛んだ。  笑う声の収まった後、姉弟は剣の見世物になることを承知した。  分の悪い賭けになるが、それでも逆さ吊りよりは剣のほうが希望がある。  そう信じて。   (2)    アルメルにとって、剣と弟のない生活など考えられなかった。  ユリスも、おそらくはそうだろう。剣と自分が生活の全てに違いない。  ただし、剣は悪くなれば替えることがあるが、姉弟の互いの替えはどこにもない。  姉弟は、縛られたまま夜道をブロンデルの町まで歩かされた。  周りには武器を持ったダヴィドの部下が何人もいたので、逃げ出すことは出来なかった。空腹で逃げる体力がなかったのもある。  ダヴィドの部下に後ろから武器でつつかれ、泥と埃で汚れた体を引きずって、ブロンデルに着いたときには昼になっていた。 「っ!」  アルメルとユリスは、ブロンデル広場の横にある、あばら家の一室に放り込まれた。ロープが外されたと思ったら、二人とも背を蹴られて部屋に押しこめられた。 「この……っ」  ふらつきながら体を立たせ、悪態が口から出かかった時には、ダヴィドの部下はもう部屋の前から立ち去っている。  姉弟は戸を開けられないか試したが、当然鍵はかけられていた。戸は頑丈にできていて、少しばかり押したり体当たりした程度ではびくともしない。 「……ここで休めってことかしら」  疲れた息を吐きだして、アルメルはつぶやいた。  部屋というより牢に近いこの一室は、すえた臭いが鼻につく。  中は石でできていて、薄暗く湿っていた。格子のはまった窓が上の方にあるが、陽の光はあまり入らない。 「だろうね」  疲労のこもった、悔しそうな声で弟が同意してきた。  ひどい環境だ。けれども最悪ではないと思った。もっとひどい目に遭ったことがあるからだ。  盗賊団掃討の報復を受け、血まみれで死にかけたときに比べればまだましだと、アルメルは気を奮い立たせる。  ――まだだ。まだ絶望には早い。終わりじゃない。  そんなとき。  足音が戸の前にやって来て止まった。次にこんこんと、部屋の戸を叩く音になる。 「誰?」  警戒した弟が呼びかけると、 「お前さん方が死なないうちは、世話をしろと言われていてな。それ、下を見ろ」  戸の向こうから声が聞こえてきた。声色からすると、老人だろう。  彼は戸の下の隙間から、水の入った浅い桶を差し入れてきた。 「使うといい。沸かしてあるから飲めるぞ。足りなくなったら、言えばまた持って来てやる」 「……ありがとう」  アルメルは老人の厚意に礼を言った。この薄暗い部屋の中でも、差し出された水が澄んでいるのが分かる。見るだけでも疲れが癒される気がした。  二人で水を飲み干した後、体を拭く水が欲しいと頼んだところ、老人は文句も言わずに用意してくれた。  ちょっと親切すぎやしないかと不思議に感じた後で、アルメルは気が付いた。  ……この優しさは、自分たちが近いうちにここで死ぬと思われているゆえの同情ではないかと。  複雑な気分になった。親切はありがたく頂戴するが、こんなところで死ぬのは御免だ。  この老人の予想を、裏切ってやることは出来るだろうか。  体を拭くために、アルメルは着ていた服を脱いだ。  縛られていた手首は擦り切れて赤くなっているし、胴には蹴られたあざが残っている。それでもまあ、命に関わる怪我でないだけましだ。  老人がくれた布の端切れを湿らせて、顔を、腕を、胸を、腹を拭いていて、 「……あんたも、どこにいてもすることが変わらないわね」  部屋の角に座って、裸の自分を眺めている弟のユリスに、アルメルは苦笑した。  別に裸を隠す必要のない相手だと思っているので、アルメル側もこれまで通り、見られたからといって動じることもなく、平然としている。  アルメルは布を軽く洗うと、弟に近づいて、彼の前で自分も腰を下ろした。 「使う?」  ユリスの前に、アルメルは布を出す。 「ん……」  布を取るかと思った弟の手は、アルメルの腕を掴んでぐいと引いた。ろくに食事をしていないのに、驚くぐらいに力強い。彼はそのまま、アルメルの裸体を抱きしめる。  「……すけべ」  アルメルの口をついて出てきたのはそんな言葉だった。  しかし口では言うものの、自分の乳房の間に顔を寄せる弟を、アルメルは引き剥がさなかった。弟の黒髪を軽く撫でてやると、彼は顔を上げた。  縛り上げられ閉じ込められ、散々な扱いでぼろぼろになった弟の顔と体。それでも、自分と同じ緑色の瞳は、まだ希望を失っていない。 「絶対に、ここから二人で生きて出よう」  弟の言葉は、頼もしかった。昨日今日の仕打ちで、彼も相当体力を奪われているだろうにも関わらず。  アルメルは優しく頷いた。表情も、自然と精気が満ちる。 「……そうね。生きて出て、父さんと母さんを探しましょう」  自分も弟も生きている。  弟と一緒に生きて、やることがある。  何も得られないまま斃れてたまるものか。    二人ともが体を拭き終えると、服を着直し、部屋の角で壁を背にして目を閉じた。  背中は痛くなるかもしれないが、ここは屋根があるのだから、野宿よりはいい。  ダヴィドとその従者に呼びつけられたときに、何が待ち受けているかは分からない。だから今はただ、体を休めておこう。  疲労感にどっと襲われ、眠気で意識の遠のく中、アルメルは思った。  弟を――隣にある体温を、誰にも奪わせないと。   (3)   「飛び散った血の赤が映えるよう、場内は白い砂を敷いてございます」 「大昔の剣奴の闘技場のようだな。古典のようにここを整備するのも悪くないか」  ダヴィドとその従者が交わす言葉を、アルメルは醒めた心地で聞いていた。  ブロンデルの町に連れて来られた次の日の昼。  民衆向けの見世物に使う広場の観客席に、町の人間が集まっていた。  集まる人間たちは、もちろん催しが目当てだ。血の流れる見世物は、日頃鬱積している庶民の不満を軽くするものらしい。  歪んだ熱気を前に、アルメルの心中は複雑だった。  先に出場するのはアルメルだと聞かされている。  今は弟のユリスと共に入退場口の近くにいた。弟は手首を縛られ、左右は武装したダヴィドの従者に見張られていた。  ダヴィドが、ざりざりと白い砂の上を歩いてこちらにやって来る。アルメルとユリスの顔を交互に眺めると、意地悪く口の端を吊り上げて笑った。 「お前たちが真に正しき者ならば、行く手に勝利があることだろう」 「……無茶苦茶な理屈だね」  ユリスが不愉快だと顔に出して言うと、剣呑な気配を感じたのか、両隣の従者が剣を抜いて、彼の首の前で刃を光らせた。暴力に出るなという脅しだ。  弟のほうも口だけで、直接にダヴィドを害しようとはしなかった。もっとも、縛られ周囲を固められているので、やろうとして出来る状況でもないが。  不満を募らせる姉弟に、 「勝てばいいだけだ。違うか?」  ダヴィドは動じず、ただ冷たく嘲笑った。  思い通りにならなかった腹いせに、殺し合いに出場させて死なせてしまおうとする。  権力者の横暴だが、その横暴は当然としてまかり通る。  アルメルは、左右から監視される弟を、改めて見た。  彼は自分の応援のために連れて来られたのでは、多分ない。  拷問というのは、当人を肉体的にいたぶるよりも、身内を捕らえていたぶり、その様子を見せつけるほうが効くと、どこかで聞いた覚えがある。  自分が殺される、凌辱される様子を弟に見せつけてやろうという考えで、弟も引っ張り出したのだろう。 「姉さん……」 「大丈夫よ」  呼びかけてきた弟に、アルメルは安心させるように微笑んだ。  朝方は、差し入れられた固いパン一つを二人で分けて食べた。  あれを最期の食事にする気は、これっぽっちもない。  ダヴィドが中央に出て、観衆に向かって演説を始めた。自分の名前を挙げて、淫らな女だのと説明しているようだが、アルメルは最早どうでもよかった。  向こうの望みが公開処刑だということは、とっくに承知している。辱めの罵声を浴びることぐらい、アルメルは予想済みだ。むしろ弟のほうが苦々しく思っている様子だった。 「私の相手と、武器はどこかしら」  弟の横にいた従者に尋ねると、従者は返事の代わりに入退場口のほうを見遣ったので、アルメルも視線の先を追った。  ちょうどそのとき。  禿頭の巨漢が姿を見せた。   年齢は三十前後か。上半身は裸だった。肌は浅黒いが、異民族ではなく日に焼けた黒さのようだ。腕と上半身は筋肉で盛り上がっていて、腕に焼きごての印がある。街中を歩くだけでも目立つ風貌だと、アルメルは思った。  ちらと横を見ると、弟の隣の従者がにやにやしていた。どうだ恐ろしいだろう、とでも言いたそうだ。  ……つまらないものを見た。アルメルは醒めた表情のまま、もう一度巨漢に視線を戻す。  巨漢は何も言ってこなかったが、彼の黒い瞳には、こちらに対する憐れみが浮かんでいた。   「あれはどういう相手なの?」  弟が尋ねると、従者は「姉ではなくお前が先に聞くのか」とやや呆れながらも答えた。 「ここで時々、動物相手の見世物をしている男だ。名前はガエル。あまり喋らんが、仕事はする」 「人間相手には戦うの?」 「たまにな」 「……そうなの?」  ユリスはあまり納得がいかないらしいが、へろんとした声で適当に打ち切った。  アルメルは、なんとなくだが、弟の考えたことが分かる気がした。  ガエルは実戦で鍛えたというよりも、見世物のために鍛えた体に見えるのだ。  ダヴィドは、アルメルを虐げる展開になったときに、見栄えのする相手を優先して選んだの ではないか――そんな気がした。  しかし当然ながら、想像に過ぎないことだ。相手を軽く見るのはまずい。アルメルは髪をふるふると振って、傾きそうだった警戒を立て直した。  そのうち別の従者が、入退場口から場内に入って来た。腕には二本、長剣を抱えている。ほぼ同型に見えるので、作った工房が同じなのだろう。  ダヴィドが、剣を抱えた従者とアルメル、それにガエルを呼ぶ。  三人が場内中央に進み出ると、ダヴィドは剣を渡すよう従者に命じた。    剣の一振りを受け取って、アルメルは確認する。  妙な細工はないようだ。刃に毒が塗られている風にも見えない。普段自分が使っている剣よりも、やや刃渡りは長かった。つまりは一般的な、ごくありふれた長剣。  同じく剣を受け取っていたガエルが、軽々と剣を振り回して見せていた。  そして観客席を見渡し、客に向かって、勇ましく吠える。  途端、場内は歓声とともに沸きかえった。  観客が応援するのはガエルのようだ。  おそらく、アルメルの後方にいる、たった一人を除いて。  ――結構だ。  自分にはたった一人の、弟の応援さえあればそれでいい。   (4)    アルメルは、観衆の好奇の視線にさらされていた。  観衆にとっては、女がこういう場に出ること自体が珍しいのだろう。  そして何より、相手が女ならば、淫猥な見世物になることを期待する者も多いようだ。下卑た観衆の目が、中央のアルメルに向けられていた。  従者が、アルメルとガエルを見比べて笑った。「これは勝負にならんな」と、アルメルを嘲って言う。  馬鹿にされるのは腹立たしいが、従者の所感などアルメルには何の役にも立たないものだ。  本当に勝負にならないかどうか、見ているといい。そう思った。  剣の柄を両手で持って、中段の構えを取ったとき。  向かい合ったガエルが、長剣を片手剣のように右手だけで持った。 「自信あるのね。それとも、観客が喜ぶからかしら」  アルメルが巨漢に声をかけるが、相手は無言だった。 「私、あんたが思うより強いかもしれないわよ」 「……」  相手はまたも無言だった。ただ黒い瞳だけが、こちらを憐れむように見ていた。あまり喋らないという人物評通りのようだが、話しかけても返事がないのでは張り合いがない。  ……まあ、あちらはあちらで、これから殺す相手と話したところで無益だと思っているのかもしれないが。 「始め!」  従者の声と共に、双方の剣が動いた。    素早く動いたアルメルが、相手の右手を狙って回し斬りをかける。その剣筋が読めたのか、ガエルも大きな図体に似合わず反応し、剣の刃と刃がぶつかった。  アルメルは即座に剣の先をずらし、相手の腕の上に重ねて引こうとするが、ガエルも素直には斬られない。アルメルの剣を弾こうと剛腕を動かしたので、アルメルは剣を手放さぬように手元に引き戻すのがやっとだった。ざりざりと砂音を立てて後ずさりし、再び攻撃の機会を探る。  勝負の始めは静かだった観客席から、ぽつぽつと声が湧きだした。  小さな女が予想外に立ち回るのが面白いのか、アルメルの攻撃に合わせて、観客から野次が飛ぶ。  アルメルを嘲っていた従者は、驚愕して目を剥いていた。  渦中の剣持ち二人は、斬撃の連続で金属音を鳴らしていた。  ぶつかった刃と刃の向こう側から、ガエルが重い口を開く。  「……お前を、犯して殺すか、殺して犯せ。そう言われている」 「でしょうね」  想像通りだ。もっとも、そんな目に遭う気はさらさらない。額から汗を滴らせて、アルメルは自然、にやりとした。  一合。  一合。  もう一合。  斬りの応酬で、刃鳴りが周囲に響いた。  ガエルの放つ斬撃の、それぞれが重たい一撃となって、アルメルの腕に負担として圧し掛かる。  力で押されてはこちらに勝ち目はない。  足払いをかけようにも、アルメルの脚力で相手の体勢を崩せるかが難しい。体重のある相手を動かすのは厄介だ。 「っ!」  剣同士の接触状態から、ガエルはぐいと強引に押し払ってきた。こちらがよろめいた隙に、ガエルが剣を横に薙ぐ。  剣の先はアルメルの腹を掠め、裂けた服に赤い血がにじんだ。離れた場所から、弟が自分を呼ぶ声を上げたのが耳に入る。  アルメルのめくれた服の奥に肌が見えるのが、観衆を喜ばせたらしい。  血で汚れた体の何がそそるのかは知らないが、客席から下卑た野次が飛ぶ。  聞こえてくる野次を気にも留めず、アルメルは剣を握りしめ、ガエルと間合いを取り直した。 「あんたは罪人? その腕、焼きごてがあるけど」  何か思うことでもあったのか。アルメルの問いかけに、ガエルはとつとつと喋り始めた。  「……腹が減った。だから盗んだ。盗みを繰り返して、生きてきた」  正面から突きを繰り出したアルメルの剣を、ガエルは剣の刃で受ける。 「捕まって、殺されるかと思った。殺されないかわりに、ここで殺せと言われた」 「……」 「ここにいれば、飯が出る。今はこれが、俺の仕事だ。他の生き方はない」  ガエルの声は、悲しい諦めを孕んで聞こえた。  剣と剣の接触状態のまま、じりじりと二人は動く。  斬り込む隙を、アルメルは丹念に探していた。  なんだか腹部がべっとりしている感覚がある。汗か。それとも、血か。   思ったより深く斬られているのかもしれない。これ以上体力を奪われるのはまずい。 「女。お前の生き方は何だ」  ガエルが尋ねてくると、アルメルははっきりと答えた。 「剣よ。剣と、弟。他の生き方はないわ」  問われるまでもない。  すがるもの。頼るもの。大事なもの。誇るもの。それは剣と弟だ。  ――今だ。    観客への見栄えを気にしたのか、やや大げさな動作でアルメルの剣を払い、腕を掴みあげようとしたガエルの脇を、一瞬の隙をついてくぐる。  間一髪で斜め後ろに回り、相手が振り向くより前に、ガエルの右膝の後ろを斬った。 「うぐぉっ!?」  吹き出した血が、白い砂に赤い跡を作る。  痛みで軽く上がった脚の、右膝の後ろに、アルメルは今度は突きを入れた。こちらを斬ろうとして、しかし痛みで動きのずれたガエルの剣が空を切る。  膝裏から引き抜いた剣で、アルメルはガエルの剣を弾き飛ばした。脚をやられたガエルの重い図体は、もう自身で支えられるはずもない。彼はがっくりと前に倒れ込んだ。  ガエルの剣を、彼の手の届かない場所に蹴り飛ばすと、 「殺せ! 殺すんだ!」 「やれ! とどめを刺せ!」  熱狂に湧いた観衆が、揃って声を上げた。  殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!  ……聞き苦しい大合唱だ。命は奪うなという声の一つもない。  血でぬるぬるする柄を握ったままで、アルメルが顔をひきつらせると、従者の一人が角笛を鳴らした。  ぴたりと静まり返った場内に、 「やれ。殺さないのならば、こいつの命はないぞ」  ダヴィドは弟の横から、アルメルに脅しをかけた。彼の従者が、弟の首に剣の先を向けている。弟のユリスは何も言わずに、アルメルがどうするかを見守っていた。  ダヴィドたちが出番でない弟をこの場に引っ張ってきたのは、意に従わせるための人質として使うためでもある。 「女」  足元で、白砂の上にうつ伏せで身を横たえているガエルが、苦しそうに声を出した。彼はアルメルの顔を見ようとしてか、砂のついた顔を上げようとする。 「……俺を殺さなければ、お前の身内が……死ぬんだろう。迷っている場合じゃ、ない。そうだろう?」 「そうね。その通りだわ」    ……優先するものを間違えてはいけない。親にも叔母にも言われ続けたことだ。  アルメルは剣を握り直し、真っ直ぐにガエルの首を突いた。  ガエルの死を確認してから、ダヴィドの従者は勝者としてアルメルの名を高らかに叫ぶ。  観衆はただ強い者が好きなだけなのだろうか。それとも血が流れさえすれば満たされるのか。  勝負の前にはガエルの味方をしていたはずの彼らが、手のひらを返した歓声に沸いていた。   (5)  その日はどういうわけか、アルメルとガエルの戦いの後、すぐお開きとなったらしい。  らしいというのは、勝負の後ロープで手を縛られたまま駆け寄ってきた弟が、手当しろと叫んでいたのを最後に、アルメルの記憶が飛んでいるからだ。  気が付いたら、アルメルは例の牢屋のような部屋で寝かされていた。  自分が勝つのが予想外だったとしても、後に控えていたユリスの予定まで変える理由にはならない気がしたが、ダヴィドの気分なのだろうか。  もっとも、ダヴィドは一時はアルメルが欲しいと言いながら、腹いせで捕らえて殺しにかかった男だ。気分でころころ変えてもおかしくはないのだが。 「よかった。起きた?」  意識が戻ったとき、目の前には弟の顔があった。  額に何か当たると思ったら、水を絞った布だった。汗を拭いてくれていたらしい。 「あの後どうなったの?」  アルメルは体を起こそうとするが、ユリスはそのまま寝ていろと手振りで示す。自分の腹に巻かれた布を見て、アルメルは起き上がるのを止めた。 「姉さんが勝った後、出血でふらふらしてたんだよ。だからここに運んで、外の爺さんにきれいな布をもらって、僕が診てた。医者は呼んでもらえなかった」 「……ありがと」  アルメルは礼を言った。弟のことだ。自分のために必死になってくれたに違いない。  照れくさそうにした自分に、ユリスは微笑んだ。 「応急手当だから、ここを出たら医者に行こう」 「そうね」  アルメルは頷いた。ダヴィドの気まぐれで、何連戦させられるか分からないのが現状だ。けれども、ここを出るという希望を失うわけにはいかない。  今日は生きながらえた。  明日明後日も生きて、弟と一緒にここを出る機会をきっと掴んでやる。  怪我を負った体でも、アルメルは強い意思を緑の瞳に宿していた。    しばらく休んでいた後。  誰かの足音が部屋の前まで来ると、こんこんと戸が叩かれた。  世話をしてくれる老人の足音ではない。もっと強靭な足取りだった。 「誰?」  弟が警戒した声を飛ばす。返ってきたのは、男の声だった。 「この場で名乗るのは不都合がありまして。失礼ながら、これで察していただければ」  彼の周囲には見張りがいるようだ。戸の下の隙間から見えたのは、短剣の柄だった。尾のない竜の紋章がある。  姉弟は驚いて顔を見合わせた。こんなものの持ち主は、一人しか心当たりがない。  以前ロロの実家の稽古場で、弟と戦った剣客――レナルドだ。 「……姉さんはあげないよ」 「君は本当にご挨拶だな」  部屋の戸越しに、男二人が笑い声をあげた。 「二人とも無事でいるか」 「僕も姉さんも生きてるよ」  戸の向こうのレナルドは、いくらかほっとしたようだった。前に会った時の彼は、毛並のよい出自に相応しからぬ質素な身なりだったが、今どうなのかは本人の姿が見えないので、判断しようがない。 「所用で東部に来たら、偶然君の姉が見世物にされているのを知った。君がいながら、どうしてこんな事態になった」  弟は面倒そうにため息をついた。 「運が悪かったとしか言いようがないよ。ところで、そっちこそ何しに来たの? 助けてくれるの? あんたが余所の領地のことに口出したら、面倒なことになるんじゃないのか?」  未だに嫌っているのか、辛辣な口ぶりの弟に、 「……その通りだ。それに今から私があれの父親に掛け合ったところで、間に合うとは思えない。あれが私の話を聞くはずもない」  レナルドは声を落として言った。“あれ”とは、ダヴィドのことだろう。 「君の姉はそこにいるんだな」 「いるけど、今は寝てる」 「……横になってただけよ。私は話せるわ」  アルメルが口をはさむ。  自分の声は戸の向こうに届いたようで、返ってくるレナルドの言葉は、明るくなった。 「お久しぶりです。直接顔を合わせられないのが残念でなりません」 「歓待できる状況じゃなくてごめんなさいね」  今度は戸の下の隙間から、何かの包みが差し入れられた。 「あなたの不幸は察するに余りあります。こんなものしかありませんが、召し上がってください。中身は……」  レナルドが言い終わらないうちに、ユリスはがさごそと包みを開け始めた。戸の向こうから咳払いが聞こえてくる。気が早い奴めと思ったことだろう。  包みの中から出てきたのは、チーズと干し肉だった。この状況下では大層な御馳走だ。 「ありがとう。いただくわ」  アルメルの礼の後、レナルドは声を潜めて聞いてきた。 「この戸は、剣を差し入れれば壊れそうか?」 「たぶん無理。もし壊せても見張りが来るよ」 「……打つ手なしか」 「うん。ここを出るには正攻法で認めさせるしかないね。どれほど無謀な闘いでも」  レナルドは、周囲をちらちらと警戒している風だった。姉弟はもともと囚人扱いだ。見張りもいるし、あまり長い話も許されないのだろう。  レナルドの去り際に、ふと弟が尋ねた。 「もしかして、僕の相手はあんたなの?」 「違う」 「そっか。対戦相手で出てくるのはさすがにないか。差し入れどうも。元気でね」  ユリスが普段通りのからりとした言い方で、別れを告げた後。 「ユリス」  レナルドは確認するように、語気を強めて弟の名を呼んだ。 「何?」 「アルメルさんを手放すな」 「言われなくても」  ユリスの言葉には、強い決意が込められていた。  それはアルメルの耳に、誓いのようにも、約束のようにも聞こえた。  「同じおっさん貴族でも、全然違う二人だよね。うまそう」  もらった差し入れを手に持って、弟が言う。弟はダヴィドとレナルドを比較して、こうも違うものなのかと思ったようだ。アルメルも同感だ。 「それはあんたが食べなさい。次に呼ばれるのはユリスよ」  アルメルが差し入れの干し肉とチーズを指さすと、ユリスは困った顔をした。 「……姉さんも少しは食べなよ。体に悪いよ。あの酒樽みたいなおっさん、何言い出すか分かんないから」  酒樽みたいなおっさんとは、贅肉だらけで丸っこいダヴィドを差しているらしい。 「前から言ってるでしょ。食べ物はあんたを優先しないと、私も生きていられないのよ」  共倒れになってはどうしようもない。ゆえに、食べ物の乏しいときはアルメルはユリスの体力のほうを優先するのだが―― 「だからって、姉さんばっかり腹空かしてるのは僕は嫌だ」  弟も引く様子がない。  しばし言いあった末、二人で同じ量を分け合うことで落ち着いた。   今の立場からするとかなりの御馳走にありつきながら、 「絶対外に出て、これよりももっといい肉食べるのよ」 「そうだね。酒もつけよう」 「ふかふかして柔らかいベッドで酔っぱらっていたいわ」 「身の危険がないところでぐっすり寝たいよね」  牢に似た部屋の中、姉弟は、一時の休息で笑い合った。   (6)    アルメルがガエルに勝ったのを、世話をしてくれている老人は大変に驚いていた。  けれども姉弟に対する同情的な態度は崩れない。  辛い死が先に延びただけに過ぎないと考えているのだろう。  ここから生きて出られる奇跡を掴み取って、もっと驚かせてやりたい。アルメルはそう思った。  レナルドが面会に――話しただけで顔は見ていないが――来た次の日の朝。   弟のユリスが白砂の殺し合いの舞台に呼ばれた。  日はだいぶ高くなり、白い砂の敷かれた広場をぐるりと観衆が囲む中、ダヴィドが観衆相手にユリスの紹介を始めた。アルメルのときと同じように、心の歪んだ者扱いする言葉が並ぶ。  ……聞かされる自分が腹が立っていた。弟はこんな侮辱をされる覚えはない。  ひとしきり喋った後、 「待たせたな。まさか小娘が勝つとは思っていなかったのでな。あのままガエルの奴に相手をさせる予定が狂った。観衆からあれだけ殺せと声が出れば、無視は出来ん」  ダヴィドはこちらに寄ってくると、いつものように冷酷な口ぶりで、ユリスに説明を始めた。脂ぎった顔には、生きながらえたアルメルに対する不満が見て取れる。腰のベルトには三枚羽の竜の飾りがつけられていて、陽の光の下で豪奢な輝きを放っていた。  そういえば、レナルドは尾のない竜が家の紋章だった。この三枚羽の竜の意匠も、都の貴族街で見たことがある気がする。おそらく、ダヴィドの家の紋章なのだろう。 「まあ、所詮は罪人だ。奴の命など惜しくはないが……つまらん小娘め」  吐き捨てるように言うと、ダヴィドは顔を醜く歪ませた。  アルメルはユリスの後方で、手を縛られ左右をダヴィドの従者に睨まれている。前にアルメルが戦っていたときと、ちょうど逆の状態だった。  斬られた腹の傷口が痛むが、弟の戦いに立ち会うよう剣でつつかれれば、ここに来るしかない。 「……それで、僕の相手は誰なの」  弟が、ささくれだった様子で言う。対するダヴィドは、灰色の瞳をぎろりと動かした。 「急かずに聞け。囚人の誰かを連れてこようと思ったのだが……また予定が狂ったのだ」  そんなとき、入退場口から白い砂を踏みしめて現れたのは、身綺麗な若い男だった。 「失礼いたします」 「……我が従者の一人、エヴラールだ。そしてお前の相手だ」   ダヴィドが、やってきた若い男を場内中央に招いて、観衆に紹介を始めた。  年は姉弟より数歳上に見えた。黒い髪を肩ほどに伸ばしている。前髪をちょうど目を覆う程度の長さで切り揃えているので、目元はよく分からない。人物全体に雰囲気は穏やかなのだが、雰囲気と不釣り合いな隙のなさがあった。  体格的には弟と差はあまりない。弟のほうが若干背が高いくらいか。着ているものはダヴィドほどではないが綺麗にしていて、こんな場所に放り込まれる立場の人間には思われない。歩いてきたときに金属の擦れる音がしなかったから、服の下に鎖かたびらを着ているわけではなさそうだ。  彼と比較すると、ここ数日の生活ですっかり衣服の汚れたユリスが、一段と貧しく見える。  相手の風体に、いくらか困惑した様子の弟が、 「……確認するけどさ、試合じゃないよね。殺し合いしないといけないんだよね」  中央に進み出て問うと、ダヴィドは当然だと頷いた。  ユリスは、今度はエヴラールのほうに顔を向ける。 「ここって死ぬような場所だよ。そこの酒樽みたいなおっさんに出ろって命令されたの?」  エヴラールはダヴィドを酒樽呼ばわりしたことに笑いをかみ殺しつつ、右手の平で自身の胸に軽く触れた。 「いいえ、わたくしは自ら志願したのです」  先程ダヴィドが言った「予定が狂った」とは、従者が自ら死地に向かいたがったということか。  自ら志願したという言葉にぎょっとした弟とは対照的に、エヴラール本人はすましたものだった。血を見たくて集まった観衆の野卑な視線の中、口元には優雅な笑みをたたえている。  ぽっと出だからなのか、それとも衣服が平民のそれより恵まれているからなのか、ガエルのときのような声援は、エヴラールにはない。 「ところで、ユリスでしたね。あなたはなぜ、剣を手に取るのですか」  戦いに参じた人間には思われぬ柔らかい声で、エヴラールはユリスに話しかける。 「家業だよ。僕たちの親も剣士。剣を振って生きるのがうちに生まれたものの宿命」  ユリスが口にしたのは、彼の信条のようなもの。弟は、アルメルよりも家業を強く重く受け止めて生きていることを、アルメル自身もよく知っていた。  エヴラールは返答を耳に入れ――さっと覇気を滾らせた。穏やかな笑みを描いていた唇の端が、愉快気に吊り上る。 「それはいい。わたくしはずっと、疑問でした。技芸の腕を決めるのは、生まれか育ちか」  黒い前髪の奥で、黒い瞳が歓喜で輝いた。師に問題の答えを求める生徒のように。 「この戦いに、巡り合せに感謝を」 「……感謝、ね」  剣を抱えてやって来た別の従者を眺めて、ユリスはエヴラールの言葉を反芻するように繰り返した。 「僕としては、こんな時に会わなければよかったって気分だよ。僕も姉さんも理不尽な目に遭ってる状況で、純粋に勝負を楽しもうって気にはなれない」  ユリスは贅肉でだぶつくダヴィドをちらと見た。ちらと見ただけだが、その眼差しに鋭い憎悪を含んでいるのを、やや離れた位置からでもアルメルははっきりと感じた。  弟の顔が見えたのだろう。傍で剣を抱えたままの従者が、恐怖でびくりと震えた。  その憎悪をすっと押し込めた後、ユリスはエヴラールに関心を戻した。 「腕のよさを決めるのは生まれか育ちかが知りたいの? エヴラールの家の仕事は何?」 「生まれは役人の家です。家業は兄の物でしたから、わたくしが生きていくには他の家で雇ってもらえるような技芸が必要でした。わたくしもまた、剣を振って生きてきた身なのです」 「……そういうことか」  おっとりした声で話すエヴラールに、弟はある程度納得した様子だった。  姉弟とは違う生き方をしていても、エヴラールも剣こそが全てなのだろう。 「今のところ、エヴラールのことは嫌いじゃないんだけど……」  軽く頭を振って、ユリスは言葉を続ける。 「本当に会った時期が悪かったね、エヴラール。僕にやられた後、化けて出てくるのはなしだよ」 「ははは、ユリスは面白い人ですね。今からわたくしに勝てるつもりでいますか」  苦笑するエヴラールに、ユリスは毅然として言い放った。  緑の瞳に、蛮勇な猫科の肉食獣めいた輝きを宿して。 「そうだよ。宣言する。勝つのは僕だ」   (7)  都で、テランス――かつて両親がとっていた弟子の一人だ――の代わりにユリスが戦い、その礼にと酒をおごってもらったときのこと。  店の席で酔っぱらってへべれけになっていたユリスの横で、テランスが神妙な顔をして、こんなことをアルメルに言ってきた。 「アルメルお嬢さんは、ユリス坊ちゃんが怖くないですか? ああいえ、お嬢さんにしてみれば、坊ちゃんは猫のようなものかもしれませんが」  ……と。  アルメルから見れば、生まれと育ちのどちらが技芸に有利かは答えがない。  叔母の弟子たちにも、実家が大工でも園丁でも剣の腕がいい者はいた。  自分もユリスも、誇りを持てるくらいに剣技に自信がある。しかし、これが親から受け継いだ血によるのか、親の職を間近で学べた環境によるのかは判断しかねた。  それでも一つ、はっきり思うことはある。  姉のひいき目を抜きにしても、ユリスは強い。  ダヴィドが中央から離れると、ユリスとエヴラールは従者から剣を受け取った。アルメルのときと同じ、一般的な形状の長剣。ダヴィドの家が自軍で使っているものを流しているのかもしれない。  気が荒立っているのか、ユリスは従者の前で、片手で威嚇するように剣を横に振った。剣の先が従者の顔の前すれすれで空を切ったので、従者はびくりと首をすくませる。  見ていたエヴラールは、構えながら苦笑した。 「ユリス。少し乱暴ではありませんか。彼に当たっても仕方ないでしょう」 「そうだね。相手はエヴラールだった」  剣を一通り確認した後、ユリスも上段で構える。  二人の口ぶりは軽い。けれど、底知れぬ闇に似た殺意が、砂上の影からにじみ出るようだった。   場内の雰囲気から逃げ出したくなったのか、従者が慌てて声を張り上げる。 「は、始め!」  声が耳に入ったと同時に、  二人が動いた。  エヴラールのほうが、わずかに動きが早かった。彼が足を踏み出して斬りかかったのを、ユリスが剣の刃で止める。重なったユリスの剣を、エヴラールは攻撃の線から逸らした。  逸らされたその直後に、ユリスはさっと剣の刃を反対側に移動させ、喉を狙う。しかしその攻撃は、エヴラールの咄嗟の判断で防がれた。   白砂の上を、ざりざりと音を立てて二人が動く。  剣の接触状態のまま、互いに相手の出方を窺っていた。  少しユリスが後ずさったのを好機と見てか、エヴラールが腕を回して横から斬りかかり――  金属音。  ……斬撃は、ユリスの剣が防いでいた。  エヴラールの口元が、楽しげに笑った。つられたのか、ユリスも笑う。 「生まれか育ちか、だったっけ?」  連続する剣戟の最中、ユリスは尋ねた。 「生まれながらの武人でないからって、からかわれたの?」 「ええ。時おり、そんなことがありましてね……っと!」  素早く頭部を狙うユリスの斬撃。  エヴラールは寸でのところで身をひるがえし、剣を避けた。  刃と刃がぶつかる。  接触状態で睨み合った後、じりじりと回るように動き、相手の剣の隙を探る。  始めは二人を無言で見つめていた観衆から、徐々に声が湧き始めた。 「この小さい体で、よくガエルを殺せたもんだ。俺は、お前のぐちゃぐちゃな体が砂の上に転がるのを楽しみにしてたんだがな」  広場の隅で、アルメルの右手側の従者が面白くなさそうな顔をした。 「エヴラールが出るとは思わなかったが、あいつが相手じゃお前の弟も死ぬだろうよ」  今度は左手側の従者が、にたにた笑いながら剣の先でアルメルの胸の上をつついてくる。そのうち服が軽く切れて、肌が見えた。  不愉快だが、アルメルは手を縛られているから、引っぱたくことはできない。足は動くので、左の従者の脛を蹴ると、右の従者がすっと首元に剣の刃を当ててきた。 「女。立場を分かっているのか? 大人しくしていろ」 「……あんたたちが何もしなければね」  関心の薄い顔と声で、そっけなく、アルメルは言った。  弟の観戦をしているのだ。くだらない邪魔をされたくはない。 「!」  手が緩んだのか、ユリスの剣がぐらついた隙を狙って、エヴラールが横に薙いだ。剣を握る手を狙った攻撃だ。  幸い、表皮を切っただけで済んだようだが、ぽたりと落ちた血液が、白い砂に赤い点をぽつぽつとつける。  見ていたアルメルは唇を噛んだ。長くなれば長くなるほど、人間は当然、集中力を失う。ユリスは強いが、エヴラールもかなりの手練れだ。戦いぶりでよく分かる。  それでも、アルメルは弟を信じて、見守っていた。  どれほど歯がゆくても、見守ることしかできなかった。  天からそそぐ陽の光が、地上で戦う二人を照らし続ける。  斬撃。刺突。また斬撃。薙ぎ払い。接触からの突き。  これまでに何合打ち合ったか、もう数えきれない。  汗にまみれたエヴラールが歯を剥いた。長引く戦いの疲労が圧し掛かってきたのかもしれない。前髪が払われて隠れていた黒い瞳が見える。彼はわずかではあるが、余裕を欠いていた。  一瞬の隙を見出して、ユリスが剣を回し斬りする。剣の先はエヴラールの肩に当たり、彼の服と肉を斬った。 「生まれか育ちかなんて、答えがないんじゃないかな。エヴラールが納得するかは分からないけど」  荒い呼吸をしながら、両者は間合いを取り直す。 「……ただ強い者と弱い者があるだけだと、おっしゃるのですか」  エヴラールは顔を引きつらせる。斬られた肩の周囲は、血で汚れていた。 「どうだろうね。強さと勝負は、別物かもしれないと思うことだってあるから」 「ただ僕は、この勝負に勝つ。姉さんと自分のために」  もう何度目か。斬りかかったユリスの剣を、エヴラールが剣で防ぐ。  エヴラールがそのまま力で押し返すか――アルメルさえそう思ったとき。  すっと前に踏み込んだユリスが、剣の柄でエヴラールの肩を殴った。既に斬撃を喰らって血を流していた肩は、重なる痛みに耐えかねたようだ。持っていた剣が不安定になる。  ユリスはすかさず、エヴラールの脚を蹴った。出血もあってか、ぐらついた体からは力が抜け、剣が手から離れる。  そのぐらついたエヴラールの体の後方から、彼の脚に、さらに一閃の斬撃が入った。   砂上に倒れ込んだエヴラールの上方で、ユリスは剣を手にしたままでいた。  転げ落ちた剣は、エヴラールの手から遠ざけている。 「生まれでも、育ちでもなく、誰かのための強さ……ですか」  白い砂は、血を吸って赤く染まっていた。処置をすれば、今なら命は助かるだろう。だが、うつぶせのエヴラールはうめいた。 「……負けた以上、死なせてください。それに、この傷はおそらく、完治しません」  観衆から、声が湧いた。  殺せ! 「わたくしは、剣を握れなくなった手に、絶望しかないのです。生きながらえたところで、ただの、苦痛です」  殺せ! 殺せ! 殺せ! 殺せ!  「やれ」  ダヴィドが、忌々しげにユリスに命令した。 「……エヴラールはあんたの部下じゃないのか」  自分の従者を殺せと、よく言えるものだ。弟の顔にはそう書いてあった。  ユリスの憎悪を真っ向から受け止めた上で、ダヴィドは傲然と言い放つ。 「この場に出るのは、負ければ死だと分かっていてのことだ。まあ……当のエヴラール自身は、負けは考えていなかっただろうがな」  従者に剣を向けられるアルメルの姿を一瞥した後、 「僕のときと同じか。優先するものを間違えちゃいけない……エヴラール、ごめん」  ユリスは横たわるエヴラールを見下ろして、剣を振り上げた。    狂喜に湧く観衆の声の中、従者がエヴラールの死を確認すると、 「さあ、また次の戦いを用意してやる」  ダヴィドはアルメルとユリスを交互に見る。その表情は醜悪で、言動は小さな動物をおもちゃにする子供のような残酷さを帯びていた。 「……僕たちが正しき者なら、行く手に勝利があって、出られるんじゃなかったの」 「そうだ。勝ち続けることだ。勝ち続ければ解放してやってもいい」  ダヴィドは顎に手を当てて、にやにやと笑う。  姉弟共に相手の命を奪って勝利した。それでもこの男を満たすには足りないのか。  自分たち姉弟に、終わらない戦いをさせる気なのだろうか。  ユリスは沈黙し――アルメルのほうに、視線を遣ってきた。  弟とは彼が生まれてからずっと続く付き合いだ。おかげで考えていることは大体分かる。  賭けに出よう。ここを抜けよう。彼はそう言いたいのだ。   (8)  アルメルの横の従者二人は、エヴラールを討ったユリスに驚愕していた。  右手側の従者が、唖然としてアルメルに尋ねる。 「……お前たち姉弟は何者だ」  アルメルはしれっと答えた。 「ただの人間よ」  弟がその気なら、考えに乗ろう。ここが出口のない地獄ならば、出口を作るしかない。  アルメルはこの広場の周囲について、記憶をたどった。  入退場口にいた槍持ちが難だ。  一番警戒しなければならないのが弓だが、確認できる範囲にはいなかったはず。  剣の一振りはユリスの手に握られている。  ……そしてもう一振り、自由になる剣がある。  従者が、先ほどまでエヴラールが握っていた剣を拾おうとして――  ユリスが邪魔をするのと同時に、アルメルは身をかがめ、左手側の従者を蹴った。  自分の体が小さいのが幸いだった。  従者をすり抜け、白い砂を蹴って、アルメルは弟の側にたどり着く。手を縛るロープを弟の剣で解放してもらうと、即座にエヴラールが使っていた剣を拾い上げた。  従者がこちらに駆けこんで来る前に、中央から逃げ出そうとしたダヴィドの袖を掴み、首筋に片手持ちで剣の刃を当てる。  主人を守ろうとして動いた従者も、アルメルの刃の輝きに足を止め、それ以上寄っては来なかった。  瞬く間の出来事だった。  ダヴィドがもう少し機敏であれば逃がしていたかもしれないが、この贅肉だらけの体だ。思うように走れないだろう。  ユリスが近づいてきて、ダヴィドの腰の短剣を奪った。細やかな装飾のされた、美しく実用的でない短剣。三枚羽の竜の紋章らしきものがある。  あまり見たいものではないと思いながら、アルメルは顔から冷や汗を垂らすダヴィドの姿を確認した。  貧しく痩せた民衆の多い中、ぶくぶく太った体を上等の衣服で着飾っている。善良な為政者として敬意を集めるような人柄でもない。  人質の状態になったダヴィドに注がれる観衆の視線は、憎しみで淀んでいた。いや、彼がこの催しに姿を現したときからずっと、憎悪が向けられていたかもしれない。 「おっさんは見世物をするのが好きみたいだけど」  ダヴィドの眼前に剣を突きつけると、ユリスは場違いなほど明るい声で言った。 「貧しい人間への見世物なら、何が一番、喜ばれると思う?」 「き、貴様、まさか――」  ダヴィドが灰色の目を見開いた。  正直、殺すのは益があまりない。しかし一旦乗った以上は弟に任せることにした。  観衆、従者、アルメルが一様に注目する中、ユリスは剣を振りかぶり――  ――がぃん!  ダヴィドのベルトにつけられていた三枚羽の竜の飾りが、音を立てて割れた。 「今のは前振り。言うこと聞かないと次は本当にやるよ、酒樽のおっさん」 「……何が望みだ」  観衆の前で失禁したダヴィドが、それでも平静を装って聞いてきたので、  「ここから二人で出ることよ」  アルメルは当然の回答をした。ユリスも頷く。  ユリスが叩き割った三枚羽の竜の飾りが、砂上に転がっている。きらびやかであったそれは、無残にも割れて、歪んでいた。   「解放か」 「うん。僕たちを追ってこないならもういいよ。こりごりだ」 「あとはあんたが、民衆の不平不満から、何か感じ取ればいいわ」  アルメルの言葉の後に続けるように、 「ダヴィド・リオール卿」  姉弟が昨日聞いた声が、観衆の中から聞こえてきた。場内にも客席にも響き渡る、結構な声量だ。 「その二人は勝利しています。解放が二人の望みなら、これ以上何かされる前に、放してやってもいいのではないですか。理由をでっち上げて殺すのに躍起になっていては、今の姿よりも笑い者になりましょう。ここの観衆は、あなたに冷たいようですから」  ダヴィドは今の声の主のほうを見た。どうも既知の間柄らしい。悔しそうに顔を歪めてしばし黙考し、 「……いいだろう。出て行け。ただし二度と東部には来るな。グラムダールめ……既に笑い者にするつもりのくせに」  吐き捨てるように言った。  身の保険のために、ダヴィドを連れて場外に出ようとしたとき。  観衆の一人から、清々したぞという声が飛んできた。  それは一人、また一人と増えて、そのうち大きな歓声に化けた。  主人のためを思ったらしい従者が、角笛を吹き鳴らして止めさせる。その時、何か考えていたらしいユリスが、ダヴィドをアルメルに任せたまま、中央に戻った。  彼はすうと息を吸い込んで、ぐるりと囲む観衆に呼びかけるように、声を張り上げた。 「僕も姉さんも、異教の神話みたいに、神の血を引いた英雄じゃない。神や天の使いの加護を得た聖人でもない。斬られれば血が出るし、寝てるだけでも腹が減る。年も取るし、まだ死にたくはないけど、いつかは死ぬだろうね」   「剣だってそうだ。一振りで岩山さえ砕くような剣じゃない。怪物を討つこともない。ただの人間が作ってただの人間が振るう、鉄の剣だ」 「ただの人間が、生きるために鉄の剣を振っただけだ。散々殺生してる。英雄でも偉業でも何でもないよ」  それだけ叫ぶと、ユリスはアルメルのところに戻ってきた。  ……なぜかまた歓声が沸いた。先程より却って大きくなっている気がする。 「ユリス、もういいかしら」  内心ぴりぴりしながら、アルメルは弟を待っていた。憎々しげに歯ぎしりするダヴィドを一人で牽制するのは、気力が吹き飛ぶ。 「言いたいこと言ってきたからいいよ。さあ、出よう。そこの槍の警備兵、主人を傷つけられたくなかったら通して」   *  入退場口は意外とあっさり通ることができた。槍持ちの中に、自分たちに同情的な者が何人もいたのかもしれない。あるいは、ダヴィドに人望がなかったのか。  適当なところでダヴィドを解放した後、姉弟は追われるのを警戒して、東の国境のほうに向かうことにした。ダヴィドが自分たちを恨んでいても、さすがに異国に刺客を送ることはないだろう。  奪った短剣をつい持ってきてしまったが、これは所持していたら面倒なことになりそうだ。どこかで宿代の代わりに渡してしまおう。  しかし、厄介な短剣は捨てられても、鉄の剣は手放せない。 「酒樽のおっさんもしばらくは、領民捕まえて無茶なことをやらせたりはしないんじゃないかな」  抜身の剣を持ったまま、姉弟は細い土の道を東に歩いていた。二人ともあちこち怪我をして、体力もそうはない。自然と休み休みになりながらの歩みだ。 「上手い具合に割れたわよね、あの竜の飾り」 「あれ本当は、ベルト狙ってたんだけどね。切ってやったら、ズボン下がるかなと思って」  ……アルメルは呆れた。斬られた傷口が開きそうだ。 「あんな男の下半身、誰が見たがるのよ」  姉同様ぼろぼろの姿で、ユリスが笑う。 「大人数の前で恥かかせてやろうと思ったんだよ。そんなことより、姉さんとゆっくり休みたい」  大暴れしていた人間が、自分の前では猫のように大人しくなる。その様子に奇妙な満足を得ながら、アルメルは微笑んだ。 「そうね。休んで、父さんと母さんを探しましょう」  自分たちは旅の途中。親探しはまだ成し遂げられていないのだから。  (黒猫の竜退治・了)   ■終章2 黒猫の旅、その行き着く先 黒猫の親探し    追われるように、逃げ出すように、姉弟は山を越えて東の国へ入り込んだ。今は夏季で、冬の雪の中の山越えではない分、負担は少なかった。  国境付近の町は、場所柄両方の国の言葉を話せる者が少なくない。  アルメルとユリスは、自分たちと同じくらいの年の青年に、通訳と案内を依頼した。  報酬に三枚羽の竜の短剣を渡す話になっている。  ロロの町を出るとき、叔母が示したのは東だった。  両親は、国境付近で消息が途絶えたという。  国境を越えて、東の国に来ている可能性は十分にあった。  東の国の、とある小さな町の料理屋で、姉弟が茹でた腸詰めをつついていたとき。 「二人の父親は、ユリスに似ているのでしたね。黒い髪に、緑の目で」   通訳と案内の青年が、確認するように聞いてきた。 「いるの? これに似ている人が?」   席を立って駆け出しそうなアルメルの剣幕に、青年はびくりとする。 「は、はい。今そこにいた人が、昔、ユリスのような男を見たって。そっくりだって驚いてました」 「それは、いつのこと?」 「十年以上前だって言ってました。場所は、この町から南」  時期も一致する。姉弟は顔を見合わせて頷いた。 「お願い。もっと詳しく聞かせ……いいえ、連れてきて!」  話によると、その人はかつて、傭兵として戦場にいたらしい。しかしユリスに似た人物の件になると、言葉を濁して、はっきりとは言いたがらなかったそうだ。  代わりに、ここからさらに南にある町の、礼拝所に行くことを勧めてきたとのことだ。  他に手がかりもない。姉弟は丸一日歩いて南に行き、件の礼拝所を訪れた。石材と木材の組み合せで建てられた、質素な礼拝所だった。たてつけの悪い木の扉を開けて中に入ると、年配の聖職者が一人、黒い僧服で佇んでいた。 「じゃあこちらの話を伝えて――」  アルメルが青年に通訳を頼もうとしたとき、 「いえ、私は西の国の言葉を話せます。通訳は不要です。西からいらした方、何かお困りですか」  アルメルたちの言葉を流暢に喋って、年配の聖職者は止めた。 「父さんと母さんの……ロック・ラウラスとアンリエット・フォーレのことを、ここで聞けるって言われて」  ユリスが事情を説明する。聖職者は、両親の名前に心当たりがあるようだった。 「ご両親、ですか。失礼ながら、ご両親がいなくなった理由を、どのようなものだと思っていましたか」 「崖から落ちたと聞いているわ」  アルメルが言うと、聖職者は机の上に手を置いて、ため息をついた。 「それを信じていたほうが、お二人とも幸せだったかもしれません。ですが、手がかりを求めてここまで来た方を、知らぬほうが幸せだと追い帰すのは、失礼にあたるでしょうね」  聖職者は、どうしたものか迷っている様子だった。姉弟は何も言えぬままで、じっとしていた。  やがて、 「……お話いたしましょう」  聖職者は、意を決したように、アルメルとユリスに向き合った。   「この地方を巡って、我が国とあなた方の国で、ずっと紛争が続いているのはご存知ですね。戦には人が必要です。それも、強い者が」  姉弟はこくりと頷く。 「簡単に申し上げるなら、傭兵にするためにご両親は誘拐されました」  帳面を手に取って、聖職者は続けた。 「珍しい事例だったので覚えています。異国人の妻のほうが上官に連れていかれ、戻ってきた時にはひどい姿で、命を落としていた。妻の死を知って、夫のほうは戦う気力も脱走する気力も失って、そのまま戦場で死んだと」 「嘘よ」  即座に、アルメルは声に出していた。 「姉さん……」 「だってこんな話……!」  怒りで手が震えてきた。  あれほど探した両親が、あんなに強かった両親が、とっくに死んでいる? ふざけないで欲しい。  「埋葬場所は私にも分かりません。ですがこの礼拝所の記録に、名前が残っています」 「そんなわけないでしょう? 嘘を教えないで! こんなの、こんなのって……!」  帳面を開く聖職者に向けて、アルメルは悲痛な声を張り上げた。  けれども聖職者の生真面目な表情は、動かない。 「……私が偽りであるのなら、真実はどこにあるのでしょう」 「そんなの、はぐらかしだわ!」  アルメルが固く拳を握りしめていると、後ろから、ユリスが腹のあたりに手を回して抱きとめた。このままでは殴りかかりそうだと思って、止めてくれたのだろうか。  弟は、少なくとも表面上は平静に、聖職者に告げた。 「……坊さん、話を聞かせてくれてありがとう」 「私のことは気になさらないでください。唐突な悲しみを受け入れられないのは、当然のことです」 「ちょっと、ユリス、待って……」  アルメルは納得がいかなかった。聖職者の話にも、なぜか落ち着いている弟にも。  こんなのは、いきなり頭を殴られるようなことを、ただの他人に聞かされただけだ。 「姉さん、戻ろう」  弟に強引に引きずられるようにして、アルメルは礼拝所を出た。やるせない顔の通訳の青年に、弟が短剣を渡す姿が、かすむ目にぼんやりと映っていた。  そこからどう歩いたのか覚えていない。  気が付いたら、どこかの宿のベッドの上に寝かされていた。もう夜のようだ。  顔が腫れぼったく重たかった。眠ったまま泣いていたのだろうか。 「ユリス……」  ベッドの横の椅子に腰かけて、ユリスはじっと、アルメルが起きるのを待っていたらしい。 「父さんと、母さんは……」  アルメルの弱々しい声に、ユリスは視線を落として、首を横に振った。 「残念だけど、あの記録を否定できるものがないよ。十年以上も帰って来なかったから、よくないことが起こったんだと、覚悟はしてた。仕事の内容が内容だしね。同じようなことをしてる僕たちだって、いつ死んでもおかしくないから」 「……そう、よね」  アルメルも、頭ではとっくに分かっていた。両親が子供を放って帰って来ないことが、何を意味するかを。  たとえあの記録が間違いでも、もう両親に会うことはないのだと。 「父さんや母さんがいなくても、僕がいるよ」  アルメルが上半身を起こすと、ユリスはそっと、抱きついてくる。  肩にぽたぽたと垂れる水滴に、アルメルは気がついた。 「ごめんね……悲しいのは、あんたも同じなのに。ずっと堪えてたのよね」 「僕は……もう、泣いてる場合じゃ……」  声の震える弟を、アルメルは自分からもぎゅっと抱きしめた。  悲しいのは自分だけじゃない。二人とも同じだ。  自分の目からも、涙があふれていた。しばらく止まりそうもない涙が。  この体勢では相手からは見えないだろうに、それでもアルメルは無理に笑顔を作って、ユリスに告げた。 「いいのよ。一緒に泣きましょう」  日はまた登る。  昨日悲しいことがあろうと、辛いことがあろうと、新しい一日が始まる。  自分たちはまだ生きていて、剣を握る手も、大地を踏みしめる足もある。  窓の隙間から差し込む陽の光で、アルメルとユリスは目を覚ました。  ベッドに寝転がったまま、泣いた後の顔のアルメルは問う。 「……ロロの町に、戻る?」 「父さんと母さんのことは、叔母さんには説明したい。その後は……」  ゆっくり体を起こして、ユリスは窓に近づく。彼も散々泣いた後のひどい顔だが、帰って来ない親について答を得られたためか、長年の重荷から解放されたようなところがあった。  窓を開けると、異国の朝の風が吹き込んで、黒髪が揺れる。 「僕たちのことを誰も知らないところに行こう。それなら誰も、姉さんと僕のことを責めたりしないと思うから」  (黒猫の親探し・了) ■黒猫と南の海    南の海の小さな島。  青い海にぽつんと浮かぶ、暖かい気候の小さな島。  漆喰で白く、箱のように四角い家が並ぶこの島に、ある日、北の大陸からやって来た男女二人が住み着いた。  二人とも剣を携えていたので、あれは大陸で竜を退治した英雄だとか、禁断の愛で逃亡してきた武官だとか囁かれた。  二人は黒髪で緑の瞳。  たくさんの猫に囲まれて暮らし始めたので、ついたあだ名が猫先生。  島民と同じ言葉を話していたが、発音に異国のなまりがあった。  それまで島には何度も海賊がやって来て、食べ物と女子供を奪っていたが、男女は剣技で退けた。  以来、島が海賊に襲われることはめっきり減った。  夫婦であろうと思われたが、時おり男のほうが女を呼ぶときに使うのが、遠い国の言葉で姉か妹の意味だった。  島民は訳ありだろうと考えて、聞かないふりをしていた。  男は海に舟を浮かべて魚釣りをしては、獲れた魚を緑目の黒猫にあげていた。  大陸ではどんな噂が流れているのか、剣の勝負を挑むため、遠くからはるばる剣客が来ることがあった。   けれどどんな剣客でも、猫先生に返り討ちにされる姿しか島民と猫は知らない。  女は白く四角い家を改築して、剣の弟子をとっていた。  島民の何人かが習いに行った。  授業料は大陸から舟で届いた酒と果物。  教え方が厳しかったのか、幼い弟子はよく泣いた。  女より男が教えるほうが優しいと、島民のもっぱらの評判だった。  二人はとても仲がよく、幸せそうだったけれど、時々故郷を思い出すのか、北の海を見ては寂しそうにすることがあった。  そんな時には緑目の黒猫たちが集まって二人を慰めていたと、  今でも剣技と共に島に伝わっている。  (姉と弟と剣と剣・了)   ------------------------------------------------------- 制作者:asahiruyu(黒江イド) http://herbsfolles.blog103.fc2.com/ nekonekomarumaru@hotmail.co.jp